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嬉遊笑覧
九/娼妓
灯籠(○○)の始は、〈享保十一年三月廿九日〉角町中万字屋の遊女玉菊死て、翌享保十二年の盂蘭盆に、それが為に灯せしなるべし、徒流雲、翌秋追善とて、茶屋ごとに挑灯おとはして、軒にかけたり、其挑灯赤と青との立筋お付たる箱挑灯なりとそ、友人久卿もこの事考へあり、其内に青楼雑話といふものお引て雲、玉菊が三周忌の追善いとなまんとて、仲の町の家ごとに、挑灯お軒に出したり、其時十寸見蘭洲、〈つる蔦屋庄二郎〉水調子といふ河東ぶしの唄ひものお、竹婦人〈岩本乾什〉に作らしめ、揚屋町に住める三線ひき河栄といふものゝ家にて、追善のわざおなしたり、その時、茶屋々々も、玉菊おいとおしみければ、いひ合すともなく、家々に挑灯おともしけるとぞ、其後元文元年には箱挑灯にて、すそへ青黒の筋お付たるおかけつらねしとなり、翌年よりきりこ灯籠、まはり灯呂など作り出し、次第に潤色して、花美になれるといへり、此説によれば、三周忌よりのことにて、且ついひ合せ事もなく家々に灯せしは、紋所しるしなど、区々に異なりしなるべし、筋お付たるは、あらぬ後の度なり、追善の袖草子の序に、身のうへの秋風おはや玉祭る頃にもなりぬと、光陰の挑灯に発句の追善お題すとは、挑灯に発句お書たるにあらず、子細ありて其翌年の秋より、茶屋毎に燭台に作り花おして仏供となす雲々、此説年月などの相違もありておぼつかなくはあれど、う、ら盆の灯籠は世上一同なれば、此里にも、もとより家々に挑灯はもた、なり、唯こゝに子細ありてと雲へるはまことなるべし、そは上に引る原武雑記に、そのむかし女郎のちやうちんともしたてたる時、西田屋名主停止せしといへる是なり、されど玉菊がことは露ほどもいはず、これは彼水てうしと雲うたひもの、又袖草子などあるに、折しも其頃茶屋のちやうちん一やうにせし事などとり合せて、彼が追善より事起れりとはいひしなり、然らば青楼雑話の説のごとく、元文元年に、青黒の筋おつけたる箱挑灯お出し、それより種々の灯呂作れる事となりしなるべし、〈玉菊がことは、享保十三年、彼が追善の袖草子お引て奇跡考にいへり、またその墳墓の何くれと諸書な引て、友人久卿玉菊考あり、〉