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落穂集追加

伝奏屋敷始の事
一問曰、伝奏屋敷並御評定の義は、何頃より初りたる義と聞被及候哉、答曰、我等承り、及候義は、慶長五年、関がはら御一戦前に、公家衆参向と申は無之、天下御統一の後、伝奏の参向、毎年の義に有之お以、公家衆御馳走の屋敷と申て、新に御普請出来、伝奏屋敷と申也、夫迄の義は、御老中方の宅に於て、諸役人中式日の寄合等も有之なれ共、幸伝奏屋敷常に御用にも無之、明て有之事なれば、重畳御寄合所と有之義にて、御老中方自分々々の宅の寄合と申は相止み、式日に至り、朝夕の御賄の義は、下奉行に被仰付、外の義は手支無之なれ共、御老中方お初め、其外歷々の前へ罷出給仕お致す者に手遣ひ、如何いたしたる者なりと有る所に、板倉四郎右衛門殿被申るゝは、給仕人の義は茨原町役に掛け、番人なり共総女共お出させ、可然との義に付、茨原町の役掛り成り、伝奏屋敷前迄船に乗せ召連れ参り候節、船の上には笘おいおいたし、幕簾お掛候お初めと仕り、外々にて屋形船と申初むる由、〈○中略〉
一問曰、猶其時代〈○慶長〉の義は、諸事に付御手軽き事共と相聞けれ共、御老中方お初め、何も御立合、御評定所へ葭原町の傾城ふぜいの者お徘徊有之事、何共承知致さぬ事也、虚説などにて無之哉、答曰、手前抔も完永年中出生の者なれば、時代も違、慥に可知様も無之候、去ながら左様成る義も可有之と存る子細は、文禄年中、上方に於て大地震のゆりたる義有之、京都大仏の像などもゆり崩し、権現様の聚楽の御屋形も大破に及び、御家人衆中も押に打れ死る衆抔も有之由、其節伏見小幡山城中に於て、築地の所に立たる奥向の御屋形お震崩し、中居以下の女中五百人計りも相果候に付、老女中太閤の前に於て、今度の地震にあまたの下女共押にうたれ相果候に付、俄に其代りお召抱へよとある義お、秀吉公聞たまひて御申には、いかに下女ふぜいの者なれ共、あまたの人お召寄る事は、成り兼可申候と、玄以法印に申談じ、六条島原町の傾城共お召寄召使、其内代りの下女共お召抱へ候様にと、御申付らるゝお、近頃浩気なる御申付と、世上にて沙汰いたしたる砌なれば、御評定所の給仕人、茨原町の遊女共も相応の義と、板倉殿には被致間敷ものにても無之事也、