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塩尻
十三
一豊臣秀次の臣浅井周防守は、勇功の士なりし、秀次所愛の少童お〓せしめられしに、周防守元来男色お好みしかば、或少年お犯し通ぜし故、秀次怒りて、是お殺すべき由お命ぜらる、浅井伝へ聞て、去るべきと思ひけるが、我武勇の名お得て禄お食、おめ〳〵と立退かば、命おしさになど、人の誹りも口惜しとて、城に登り大声お上て、君人おして我お殺し給ふべき仰有由、誰れか命お聞かれし、出て害せよとて、欠廻りしかども、彼が勢に恐れてや、敢て手ざす者もなかりしかば、直に立退けり、されども日本の内に居らば、尋ね出されて恥お見んも心うしとて、朝鮮へ渡り住けるが、毎朝浜へ出、日本大乱、国家滅亡と呼はり、長刀お揮けるとかや、秀次生害の後帰朝し、浪人にてありしが、慶長十九年、大坂の役の時、籠城して戦死しけるとなん、かゝる我儘成〈る〉者の昔時多かりし、されば昔より主人戒め置し者も、其主亡びぬれば我に出て、知らず顔なるは多し、