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三養雑記

女芸者
吉原の女芸者といふものは、宝暦のころ、扇屋の歌扇といふものにはじまれり、その初は歌扇ひとりなりしが、後におひ〳〵に外の娼家にも茶屋にもいで来て、細見のやりての前のところに、芸者誰外へも出し申し候などゝかきたり、これよりはるか後に、大黒屋秀民といふもの、けんばんお立たり、芸者おどり子と肩書して、見せへも遊女と同じくならび居て、客おとりたる娼家もありき、そのまへは芸者といふものはさらになく、遊女の中にて三線おひき唄もうたひしことにて、多くは新造なり、三線のできる新造おあげよなどいひて、呼で弾せたることなり、ごれむかしよりのさまにて、中ごろよりこのならはし、いつとなくやみたり、今も見せおはる時に、すががきおひくは、三線番とて、新造の役なりといへり、伊勢の古市、越後の新潟などは、今猶遊女の中にて唄も躍もすること、むかしの手ぶりなり、歌舞もと遊女のわざなるお、上色のものは高上にかまへ、自は絃歌も弄せず、又は不得手なるもありしより、後にはせぬことゝなりしにもあるべし、京摂も同じおもむきにて、一目千軒に、大夫天神みづから三線ひかざる故、牽頭女郎(たいこぢよろう)お呼なり、又芸子といふもの外にあり、むかしはなかりしに、宝暦元未の年にはじまるとあり、また澪標(みおづくし)には、たいこ女郎といへるものは、揚屋茶屋へよばれ、座敷の興お催すためのものなり、琴三味線胡弓はいふもさらなり、むかしは女舞などつとめしものなり、享保年中より、芸子といへるもの出来たりともあれば、江戸よりははるかにはやし、これにならひて、吉原にてはじめしもしるべからず、江戸にもおどり子はふるくよりありたれど、女芸者は明和のころよりありときけり、それももとはふり袖など著て、今よりはひときはすぐれて品もよかりしよし、さて女芸者は、古の白拍子のなごりなどの如く、おもふ人もあれどさにあらず、もと遊女よりいでゝ躍子の一変せしものなり、因に雲、吉原にてはむかしより二挺鼓に大鼓お兼ること、女芸者の技にて今に絶ず、さて京大坂にても芸子の唄に、大鼓などの囃子お入るゝこともあれど、その地もとより座唄おうたふ者なく、いはゆる上方唄のみなり、されば江戸の如く下座〈または下がたとも雲〉の鳴物に定りたる手なし、かの上方唄には、謡曲の詞おとりたるが多かれば、猿楽の大鼓の手おならひおぼえて、その間お合するといへり、その外大阪の坂町、島の内おはじめ、諸国の舟つきの湊などは、豆蔵のはやしのごとく、松島ぶし、川崎おんどなどうたふまゝに、客も遊女もおのがじゝ拍子おとり、大鼓おうち入るゝことならはしなり、吉原にても、このごろはよしこのぶし、どゝいつなどいふ小唄に、大鼓あはすことは、全席上のにぎやかならんためのわざとはおもはるれど、鄙の手ぶりにならふことは、この里にはせでもありなんかし、