[p.0940][p.0941][p.0942]
賤者考
座頭といふは、まづ盲人の総名と見ゆ、これも目しひても、おのれ業おたてず、父祖兄弟子孫の養おうくる者は別、なり、是にも階級あり、幼年小盲のほどは、さま〴〵の名にて、金弥文弥仙花などもつく、それより城方一方とわかれて、城牧城黒(じやうまきじやうくろ)など重箱訓の名もあり、秀一(ひでいち)多麻一などもつく例なり、是はそのかみ城一検校といひしが、名の一字おとりたるなり、いかなるにか城方は寡く一方は多し、又都の字おいちと訓するもあるはいかなる故か知らず、それ、より上微細の級段こゝらありて、費用お出して漸々にすゝむお、今は多く束ねて一時に成る故に、その徒も暗記はせざるほどなり、太凡は今その上四度(しど)といふになり、それより又合せて勾当にすゝみ、又中間お合せて検校にいたる、此上にも小級ありて、夫よりは早くなりたる年月日によりて、臘おつみて総検校にいたり、当職三年おへて次臘に譲りて退職し、前検校と称して老お養ふといへり、〈以前よりの小階わづらはしければ略す、閑あらむ折に別記すべし、〉以上は皆盲者中の職名にて、僧綱に似たり、足利比の記錄には、検校お建業とかきたり、もとはかゝりしにや、四度は一度より次第お重ぬ、是は鴨川原にて石塔(しやくたう)といふ事昔ありて、肓人つどひてする事あるは、昔は此川の水時々溢れて、堤決し人家お流し、溺死する者多かりしかば、其追慕作善の意なりといへり、俳諧の季寄の書には、二月十六日お石塔とも積塔会ともいふ、清聚菴に会して、〈高倉綾小路なりとぞ〉守瞽神お拝し平家お語る、光孝天皇の皇子雨夜のみこの為といへり、積塔の名義は法華経にあり、六月十九日お座頭の凉といふ、積塔に式同じ、終に総検校鳥羽の湊に船つくといふ、衆盲えい〳〵と呼ぶは、昔日向国に盲人の領ありて、その米、山城の鳥羽に著きたりし例といへり、俗間に景清眼おくり出して、源氏の栄お見じといひしお、頼朝忠お感じて、日向に流して養ふ、是お日向勾当といふなどは取るにたらず、その比盲者に、勾当の称あらむや、此日向に領ありなどいふによりて附会せしなり、此曾城方へ隔年につとむるお、四度勤むれば八年の臘なり、是より出てたゞ雑費お、今は言よくいひなして官金と称す、さて座頭はいづれの国にても、諸人吉凶事ある毎に、配当とて料足お乞ふ、此事旧来よりあるは、その濫觴はしらねども、僧形にてなべて法師ともいへば、乞食頭陀鉢ひらきの類なる事は知られたり、今は医道按摩〈古くは腹とりといふ〉などおも業とすれども、昔は琵琶法師とて専びはお弾ず、今昔物語に、木幡の里に目つぶれたる法師の、世にあやしげなるが、琵琶の妙手にて有しに、博雅三位の習ひたりし事など見ゆ、平家物語お信濃前司行長が作りてよりこれお語る、平家物語の琵琶は、柱一つ楽のよりは多く、今も是おなせど、もてはやす人すくなければ、知らぬ盲人多く、なべてはつくし琴三絃お専業として、人にもおしふ、三絃はもと浄るりの方と、遊里の妖曲にのみ弾きしお、移りては常の家にもひくことゝなりたれど、猶婦女児のみの戯にて、おのが幼年なりし比までは是はよき人は、おさ〳〵もてあそばず、たま〳〵弾く者お遊蕩子遊冶郎とそしる故に、習はむとする者も人目おしのぶほどなりしが、今はなべてよろしきほどの家にて、誰もひくものとなりたり、さる故に教ふる者も又多くなりて、盲人のみならず、男女ともに此道の師にて生活する者、流おたて派おわかちて名目多し、こは男は多くは幇間、又は戯場観物師の属なるもあり、もとこのめるより落魄して、さる師となり遊蕩子にて過るもあり、女は前にいふ芸子のうちに、年たけて色おとろへたる者、又遊里ならずして、町芸子などといふ一転の者などもおしへ、男の所にいふ如く、このめるよりして習性となり、遂に業とする者もあり、盲人ならぬは戯場の属の他は、本業とたてゝ、世々にするにはあらず、素人の体なれども業とするに至りては賤し、〈元来此三弦今やうに返て、その曲淫靡なれば、もて遊ぶ人の意も、いつとなくそのかれにうつるお、まして明くれに業とするにいたりては、皆放蕩孑の風おなせり、〉すべてかゝる遊民は、有て益なく、なくてたらはぬ事なし、禁じて可なり、又女瞽あり、七十一番職人尽歌合女盲と出て、鼓お腋にかゝへうちて謡歌する絃あり、今はさることはたえて、これも琴三絃按摩のみなり、座頭の如き階級もなし、又男まうくる事は禁なり、