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塩尻

文盲者の説に、昔朝家盲人お愍み給ひて、上加茂封境の中に田儔お置て、帰する所のなき盲人お扶持し給ひしと也、又日向国に、官稲ありて、衆盲お養ひ給ふ食に充給ひしと雲も、是又悲田療病院の類なるべし、昔天王寺の向け院に、摂津河内両州のに官稲三千束お費用に賜りし事、古記に見へ侍る、然れ共性仏已来、如一、覚一等が如きは、又別にや、殊に覚一は明石撿挍とも称し、尊氏将軍の族なりし、是より盲人世に威有と雲、況や城了が族者聞雨の歌、
夜の雨の窻おうつにもくらければ心はもろき物にぞありける、天庁に達し、雨夜と勅号お下されし、〈後小松院御賜也〉とかや、盲人の事書たるものに、光孝天皇の皇子に明お失ひ給ひしありし、雨夜の御子と称せしと雲々、帝記お考ふるに、光孝三十六子にして、雨夜といふ皇子なし、思ふに雨夜の城了が事お伝へ誤れるにや、光孝帝お小松の帝と称す、城了に雨夜の号お被下しは、後小松帝也、故に事お誤り記し作りかくいふにや、例せば、蝉丸お延喜第四の御子と造言する類にや、