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日本教育史資料
十九/和学所
温故堂確先生伝 門人中山信名平四撰
温故堂確大人、名は保己一、氏は荻野といふ、確は其師須賀一撿挍の本性お冒されし也、其先小野朝臣篁卿より出て、世々武蔵国児玉郡保木野村に家居す、初め篁卿七世の孫孝泰〈一説に隆泰〉と聞へし人、武蔵守になりて、この国に下りしが、その頃のならひとて、任はてゝ後も、なほこゝにとゞまりすみ、多くの庄園おたくはへもたれしかば、その子義孝〈一説に義隆〉も是に次て多摩郡横山里に家造し、遂に国人となれりしが、家も富りしまゝに、武蔵権介に請しなりて、五位のくらいにさへあづかりしゆえに、野大夫とも又横山大夫ともきこへし也、この人の子十人有中に、太郎資孝〈一説に資隆〉は横山党の始祖なり、〈○中略〉この人加美郡藤木戸村の父老斎藤理左衛門〈これは公より禄給りて賞せられき、孝義錄に伝おのせらる、これ大人の叔父なり、〉といふものゝ女お妻として、延享三年丙寅大人お生めり、幼名お寅之助といふ、五歳の年より肝お病て、七歳の春俄に盲目となる、或人大人の父母に告て雲く、寅之助が歳星其身にかなはず、むべ歳星の次お転しなば能かるべしと、これによりて生年二歳お減じ、戊辰の生に准へ、辰之助と攻む、又同郡池田村なる験者正覚房が子に擬らへて、一名お多門房と名づけらる、幼少より木草の花お好みて、いまだ盲目ならざりし時、野辺に出て、すみれ数種お求めて、前裁に植られしことなどありき、ものみずなりて後も、何にまれ花さく木草お数多植置て、人の見悦ことあれば、みづからも並ならずたのしみめづること常の業なり、されば人もし物の色めおかたらんする時に、花といへばられき、十二といふ年〈宝暦七年丁丑〉母おうしなひて、うれへ忍ぶこと尋常ならず、これより漸東都にいでゝ業おなすべき心起されしが、、或人の語るおきかれしに、当時某とかやいふもの、太平記一部お暗誦し、東都にありて、諸家にいでいり、名お顕はすときゝて、大人心におもはく、太平記は全部四十巻に過ず、これおしるおもて名お顕し、妻子お養ふことお得がたかるべきことかは、こゝに至りて、東都にいづるの志いと切なり、といふとしの春〈宝暦十年庚辰三月〉父に請て絹商〈此絹商は江戸へ出て、与力の株お買て後遂に町奉行まで経上りて、根岸肥前守といひし人なり、さて此の連立て江戸までくる途中にて、大人と互に名の挙くらべせんと約されしとぞ、〉と共に東都にいたり、雨富撿挍須賀一が門人となり、彼家に寄宿し、名お干弥と改む、〈須賀一撿挍、本氏は確といふ、常陸国茨城郡市原村の人なり、雨富といふは盲人一座のならひに在名といふものにて、別〉〈称なり、本氏おそのまゝに在名に用ゆる人もあり、ことに設て称ふるものもあり、雨富の家は四谷の西念寺横町にあり、〉盲人一座のならはしにて、この座につらなるものは、必らず琵琶、筝、三絃などいふものお習らひ得て、音曲の事お業とし、右針治導引など業ぐさとなすことなるお、大人は文読まんと思ふ事始よりの根ざしなれば、心そこにあらず、されど師のいさめやむことなければ、其筋のことども習ふさまなれど、ともすればひまおうかゞひ、文読ことのみお旨とす、翌年萩原宗固〈百花庵と称す〉が門弟となり、物語やうの文どもおよみて、歌よむ業おまなばる、其比川島貴林〈字は源八郎〉といふ人あり、山崎の流れお汲みて、神道の事にこゝろおいたせし人なり、大人これにつきて小学、近思錄などよりはじめて、異朝の書籍おならふ、節には神道の教おも受たり、又雨富が家の隣は、松平乗尹〈織部正〉の家なりけるが、この人も文よむことお好み、大人の学才の人にことなるおめでゝ、いと懇にして、劇務のひまに物よみおしへければ、大人もいとうれしきことに思ひ、其家に行通ひて契約おたて、あしたの寅の刻より卯の刻にいたりて、一時がほどは必らず文よみならはれけり、乗尹は公の務いとまなき人なれば、一日おへだてつゝもかくはせられけり、一日乗尹同僚に語りけらく、彼瞽人が人となりお見るに、度量大に常人に越たり、彼おして明あきたらんには、かへりて法令おもおかし、其身おもそこなひなん、明なきこそ幸にはありけめ、後に必らず業おなしぬべきものなり、かく思ふが故に、常に懇にはすなりとぞいひける、山岡妙阿は、その頃博学なるおもて名おあらはす、大人又この人によりて律令およまれき、難経素問などいふ医書おば、品川東禅寺の僧孝首座に習ふ十八といふ年宝暦〈十三年癸未〉に一座の衆分となり、名お保木野一といふ、〈凡盲人一坐の長官お撿挍とし、次官お勾当といふ、其つぎ平人の坐上たるものといふ在名ことお得、○原註曰、この間草本細書数百字蠹食して詳ならず、〉千日の一日に百巻およまむ、この力によりて、衆分になることお得むと、果してにして是お得たり、こゝにいたりて、いよ〳〵つとめて物よむことおむねとす、もとより記億すぐれしかば、やうやくその名おしるものあるに至る、はじめ大人雨富が室にいりし時、そのおしへにまかせ、三弦お習けるに、今日ならひ得しものは、一夜が程にわすれて、明日はしらずなりけり、すべて三年が間に、一曲おも全くは覚へ得ざるのみか、調子さへ合ざりければ、雨富もせんすべなくて、針治の術お旨と習はせけるに、医書よむ方は人にすぐれて、二度よますれば、其次の度には一文字もたがへず読ほどなりけれど、術にかくれば、人よりは遥に劣れり、こは文読かたにひかるればなるべし、雨富余りに覚えて、せめいひけるは、凡人の郷里おさりて、他邦に赴くことは、なす事あらんとての意なり、女父母の家おいでて、こゝに来るもしかなるべし、されども産業となすべきこと、一つも習ひ得るものなし、且朝夕女がなすところは、露ばかりも我心にかなはず、さはあれども、門人の禄となる術おおしふるは師の職分なり、女がこのまざることおなせといふにあらず、賊と博とお除きてのほかは、何にまれ心にかなひたらむものおつとむべし、これよりして三とせが間女お養ふべし、三年へてなすことなくば、速に郷里に送りやるべしといふ、大人肝にしるして、昼夜となぐ読書おつとめしかば、終には名おあらはすまでになりにたり、されば大人意お得て後、常にいへらく、我素より読書おこのまざるにあらず、然れども業おなし名お顕すものは、皆師のたまもの也、たゞうらむる処は、師の在世のほどかばかりの幸おきかしむる事なきのみ也と、大人もと病多し、雨富よくやしなふになほいえず、一日雨富大人に告て曰く、なす事あらんと思ふもの病多ければ果すこと能はず、病ある人旅に赴く時はまゝいゆる事あり、思ふに女が病も又しかる事あらん、我金五両おあたふべし、我に代りて伊勢の神宮に詣でよ、雨ふらん日はゆくことなかれ、必らずあしき気おうけぬべし、費余りあらば、なほ他方に行き、尽るに従ひて帰り来るべしといふ、大人そのおしへお受け、廿一といふとし〈明和三年丙戊〉の春、父宇兵衛と共に海道おのぼり、まづ伊勢にまうでゝ両宮お拝し、師より始てさるべき人の平なちん事おねんごろにのべて、朝熊二見などめぐりありきて、その夜旅宿に帰りけるが、宇兵衛は大人のぬぎおける脚半お見るに、その裏の赤き事すはうもて染たる布の如し、あやしみながら水もてそゝぎ見るに、水さへいと赤くなりたり、いぶかしとおもへど、大人の物思はむこともやとそこにては語らず、日おへてかう〳〵有しと言ければ、大人もいかなる祥ならんと思はれしが、東都に帰りて後にきけば、その日は雨富の師なりし雨谷といひける撿挍のことに当りて、総錄のつかさとられし日にあたれりとか、神も大人の誠おいたしてのみけるにめでゝ、かゝる神異おも示されし成べし、