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沙石集
六下
盲目之母養事
南都の春乗房の上人東大寺の大仏殿造立のために、安芸周防両国の山にて、杣作せさせて、其間之食物の俵おほくうちつみて置たりけるお、或時たはらお一つぬすみて、逃げける者おみつけてからめてけり、やせかれたる童にてぞありける、上人何なる者にて、かヽる不当のわざおし、仏物おおかすぞととひければ、童申けるは、雲甲斐なく貧き者にて、すぎわびて侍る上、盲目なる老母の一人候お、薪お取て遥なる里に出でヽ、かへて養ひはぐくみ候へども、身もつかれ力もつきて、はかばかしくたすけ、心安くすぐるほども侍子ば、此杣の食は、多も候仏事なれば、御事もかけず、つくる事もあらじと思ひて、少分ぬすみて母おたすけばやと思ばかりにて、かヽる不当お仕て恥おさらし候こそ、先業までも今さらはづかしく、口惜く覚侍れとて、さめざめとなきければ、上人も事の子細哀に思はれけれども、実否お知らんために、此童おば召おきて使お以童が申状に付て、母が居所お尋につかはしけり使尋ゆきて見ければ、山のふもとに小きいほりあり、人おとなふこえしければ、立よりて何なる人ぞと問ふに、内に答けるは、わびも〳〵盲目にて侍が、すぎわびて、此山のふもとにすみて、薪お取て里に出でヽ、はぐヽむ子息の童の候おたのみて、昨日出候しまヽに、露の命もさすがにきえやらで侍り、此童見へ侍ら子ばおぼつかなく心もとなくて、人のおとなへば、此童にやと思候へば、あらぬ人にこそと雲、使急帰て上人に此よし申ければ、童が詞たがはざりけりとて、哀に思はれければ、母お養へるほどの食物たびてけり、さて仏物なれば、徒にあたへんも恐有りとて、杣作之間は、童おば召つかはれけり、しはざは不当なるに似たれども、孝養の心は実にありがたければ、可然三宝の御めぐみにや、母お養ほどの食物にあたりけるこそ、返々も不思議に覚侍し、孝養の志しまことあるゆえに、冥の御哀もありけめ、