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沙石集

俗士之遁世門事
故少納言入道信西の十三年の仏事、其子孫、名僧、上綱達、より合て、一門八講と名て、ゆヽしき仏事、醍醐にて行はるヽ事有けり、開白は聖覚法印、結願は、明遍僧都と定て、覚憲僧正、澄憲法印、証憲僧正、静憲法印等、使者お高野へつかはして、此よし申さるヽに、遁世の身にて侍れば、えまいらじと、明遍僧都返事おせられけるお、兄の僧正達、大に心えぬ事に思て、されば遁世の身には、親の孝養せぬ事か、さばかりの智者学匠と雲御房の返事、返々思はずなりとて、おし返し使者お以て、此よしお申さる、又返事に、此仰畏て承候ぬ、遁世の身なれば、親の孝養せじと申には侍らず、各の御中へ参する事お、はヾかり申也、其故は遁世と申事は、何様に御心得共候哉覧、身に存じ候は、世おもすて、世にもすてられて、人員ならぬこそ、其すがたにて候へ、世にすてられて、世おすてぬは、たヾ非人也、世おすつとも、世にすてられずは、のがれたる身にあらず、然に各は南北二京の高僧名人にて御坐す御中に参じて、一座の講行おもつとめ候ひなば、若し公家より召なれん時は、いかヾ申候べき、かヽる山の中に籠居して候本意たがひ候なんず、孝養おせじと申にては候はねば、代官おまいらせ候べしとて、恵智房お以て、つとめられけり、兄の僧正達、この返事お聞て、小禅師にて有し時も、人おつめしが、当時もつむるやとぞ申あはれける、故少納言入道、兄たちの事、教訓の時は、此僧都の小禅師の時、つかひとして、せめふせられける事お、思出て申されけるなるべし、