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常山紀談
二十二
石川嘉右衛門重之(〇〇〇〇〇〇〇〇)、字丈山、〈○中略〉母終りて後、完永十三年五十四にて、芸州お去て京師にかくれ居しに、板倉重宗京都に有て、丈山おいたはる事大かたならず、諸侯貴人の会する時、丈山お座上にまねきて、此老は文武の道に達せる人なりと敬礼せらる、其後比叡山の麓一乗寺に隠循の地お設け、詩仙堂お作りて、詩人三十六人の像お壁に画き、書籍お友として閑居す、後光明帝御即位の時、松平伊豆守信綱賀使として、京都にまいられしに、丈山と親戚たるゆえ、たびたび閑居お訪れたり、承応元年七十歳に及て、三州泉の郷は其故郷たるゆえ、帰るべき志あり、板倉重宗にかくといへども許さゞりしかば、今よりは京都へ再び出じ、さらば其許へも参られじとて、和歌あり、
わたらじなせみの小川は浅くとも老のなみそふかげもはづかし、後光明帝、丈山が隷書によきと聞し召、高木伊勢守守久勅命お伝へければ、八卦の字お書て奉る、上皇〈○後水尾〉も又隷書の大字お書しめ酒肉お賜はる、完文十二年壬子五月、廿三日、一乗寺の閑居に終りたり、九十歳となり、