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近世奇人伝

僧桃水〈此僧は西山和尚著せる一書有て、既に印行す、今は要お取て挙、〉
僧桃水(〇〇〇)、諱雲関、筑後国の人にして、肥前島原禅林寺に住持す、跡お匿して後、其行方おしるものなし、帰依の尼、国おいでゝかた〴〵お尋めぐりて、洛東四条河原に至る時、師菰うちかづきて、同じさまなる乞丐人の病るお、介抱してあられしに、涙お流して拝す、さて和尚のためにとて自紡績し、年お経て織たてたる臥具の背に負しお、とり出してまいらするに、和尚今の身にしては、もちうる所なしといひてうけず、尼もさるものにて、自用給ふ所なくば、御心にまかせて、ともかくもし給へ、師に供養せるうへは、直にすてたまふもうらむ所なしといふ、さらばとてうけて、やがて病る乞丐にうちきせたまふお、他の乞丐人ども見て大に驚き、これは凡人にあらずといひて、俄にあがめたふとみけれ、ば、そこおもたちさり給ふ、そのころ弟子の両僧も尋求ること三年にして、安井門前にて、乞丐の集たる中にて、みつけしかば、其あとにつきて、人なき所に至り、師もしかくのごとくならば、われ〳〵も同じ姿となりて従んとこふに、師不肯、一人は師の指揮おえて他方の知識のもとへゆく、一人はしひて従ふほどに、さらば吾する所おみよとて、伴ひゆく所に、乞丐の死せるあり、やがて弟子とゝもに是お埋めつ、さて其死者の喰ひあませる食お、己まづ喫して、女もよく喰んやとあるに、止ことお得ずして、喰ひたれども、臭穢に堪ず嘔吐す、師みて、さればこそ此境界には堪ざりけれ、これより別れんとてさりぬ、後其遊ぶ所おしらず、ある時肥後熊本の寺僧、国侯大旦那たるおもて、勢ひ猛に、儀衛お盛にして関東に行道、大津の駅に休らふ間、馬士沓買んどて老父とよぶ、是は此日比、とある家の軒に、仮初にさしかけてある翁が、つくる所の沓草鞋いとよければ、ぢいがくつとて、輿夫馬卒もてはやしける也、時に其沓もて来る翁お見れば桃水和尚なり、彼僧おどろき輿おまろび出、手お取てなみだお流す、これは師の法弟なり、とかく旧お語りて別んとする時、女唯諸侯に酔ことなかれと示す、かゝりしかば又去て、京の片ほとりに小家お借り、僧形にかへり行乞してあられしお、角倉氏其徳お見しること有けん、しひて請じて、供養せんといへども不応曰、吾は人の供養お請ることお欲せずと、こゝにおいて、角倉氏思惟してあざむきていふ、吾邸人多けれは、日々の余の飯、空しく腐煉す、実におしむべし、是お師に参らせんに、酢お醸して売給はゝ、老脚お労して行乞し給んにまさらんかと、師これお真とし、それよりいとよき事なれ、捨るものは拾ふべし、いで吾は酢売の翁とならんと、これより洛北鷹峯にて、酢屋道全とも、通念とも自称して年お経、遷化は天和三年九月也、其乞丐の時の口号お、弟子琛洲といふ僧の聞たるは、
如是生涯如是完、弊衣破椀也閑々、飢餐渇飲隻吾識、世上是非総不干、
大津にて沓売のとき、或人其年老たるお憐思ひしにや、大津絵のあみだ仏の像おあたへしかば、其こやに掛置、消炭して上に書出す、せまけれど宿お貸ぞやあみだ殿後生たのむとおぼしめすなよ、鷹峯にて遷化時の遺偈、七十余年快哉、屎臭骨頸堪作何用、咦、真帰処作麼生(そもさん)、鷹峯月白風清、