[p.1025]
年山紀聞

隠士長流
わかき時は下河辺彦六共平(〇〇〇〇〇〇〇)と名告たり、和州宇多の産、父は小崎氏、〈名お忘れたり〉いかなる故にか、母の氏おとなへ侍りける、もとより妻子なくして、中年より津の国難波のかたはらに隠居おしめ、静に書およみ、中にも歌学おこのみ、万葉集、古今集、伊勢物語などには暗記したり、その学門おのづから伝へ聞えて、大坂の富人おほく弟子となれり、生得世にへつらはぬ人がらにて、心のおもむかぬ折は富家の招にも応せず、訪れ来れる人にも物いはず、まくらお高して、あるひは眠り、或は書およみ、心にまかせて過しける、西山公〈○徳川光国〉その才お聞しめして召けれども、終にしたがはざりしかば、紙筆おたまはりて、万葉の註お乞たまふにも、心におもむきたる時は、一二首づゝ註して、またおこたりがちに侍しまゝ、はたさずして貞享三年丙寅六月三日、身まかり侍りぬ、〈六十三歳〉円珠庵の契冲師とまじはりふかゝりければ、遣稿おあつめて、晩華集と名づけたり、