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続近世奇人伝

叡山源七
源七(〇〇)は、もと摂津国高槻の士たりしが、暴惡放埒により身おたつるに所なく、浪花に徘徊して馬卒となり、よからぬ業におきては、いたらずといふ所なし、其頃娼婦に八重といふものあり、かしくと別名せり、それ兄お害して罪せらるゝ時、其馬の口お此源七とりけるが、何んとか感悟しけん、道心おこり、妻も有けれど、大坂にとゞめて、しのびて京にのぼり、神楽岡の知福院おたのみて居たりしが、或は四国の仏閣お廻らんとおもへば、其日より暇乞て出ゆく、あるは大峯へ詣んと思へば即まうでつ、さて其山に断食して籠り、百日も五十日もありしことたび〳〵におよぶ、其後親しき人に松尾氏なるが、日枝の山に詣るに伴ひて、俄に此山信仰になり、月には十四五度もまいる、其比知福院の住僧病て終られければ、松尾氏の紹介にて、比叡の樺生谷大慈院に仕ふ、昼は木こり、飯お炊きなど為べき態おし、夜は峯々谷々おめぐりて諸室お礼し、曙には院にかへること、一日も怠らず、山法師皆其名いははず、仙人とよぶ、ある夜横川の慈恵大師の廟に籠りし時、深更に空中より声して呼かけ、凡行法は満るがよきや、欠るがよきやととひしかば、こえお励して欠るがよきと答しに、さわ〳〵と鳴て、あとは松風の声のみ也、又鞍馬に籠りし時も同じ様なること有あるとしの春、俄に江戸おさして下り、速にかへり登りたれば、人々何の用なりしと問ひしに、上野法満院僧正は、世に大徳の人なれば、今極楽世界に僧正の宮殿おまうけたまふ、此秋某月住生ましまさんなれば、此ことおしらせんとておもむきしなりといふ、例の仙人が何おかいふとうけがふ人もなかりしが、果して其月日、此僧正遷寂し給ふ故、何としてしりけるぞと問へど、唯笑ふていはず、又或時武者小路実岳卿、讃岐象頭山に代参お立んと仰給ふお、故ありて此男承りてまいり、日お経て帰りける時、卿御対面あり、此ごろの労お謝し給ふて、絹こがねなどかづけ給へるに、口に煙管おくはへながら取て戴き、やがてかゝるものはうけ奉らずとてかへし参らす、いかやうに宣へどもうけざれば、卿も甚奇とし給ふ、又ある山僧、〈一説、即大慈院也と、〉常に膳に臨ては塩梅のよしあしむつかしくいふ人あり、其折から行かゝりて眼おいからして、凡僧家のものは食おはじめ、何によらずみな仏物也、とかくいはず参り給へといひければ、彼僧も其理に伏し、物好みふつに止られしが、後に鈴声山の律師となり、終りおよくせられし、常に此男よく諫くれたりと悦び給ひしとかや、又一時日枝山のれんげつゝじ盛なるお、多折て一荷に担ひ、上今出川新地といふより、二条四条の街にいたり、娼家の遊女に一枝づゝ与へて行、何の意といふことおしらず、浅ましき世おわたるものに、善縁お結ばしめんとにやあらん、かくて年ごろへていかが思ひけん、入定したきよしおいひけれど、心得がたきことなれば、とかくいひなだめて、過しけれど、頻に催しければ、せんかたなく、さらば病死と披露せんとて、穴お堀せ、日おえらびて密に法事おなし、すでに時刻いたりぬるに、其わたりに見えず、さればとてよしなきこといひ出て、せんかたなく身おかくしたるにやあらん、されどもまづさがし見んと、そこらもとめしかば、かたはらの柴つみたる小屋に昼寐して高いびきして居たり、道入々々と起しければ、眼お覚し、常のごとくものいひ打わらひ、げに実に入定の時いたれりと、走り行て穴に飛入たり、見聞の人驚かざるはなし、時明和四年閏九月廿四日なり、