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玉函叢説

衝重の考
衝重の身のうちに物こむる事は常ならで、彼身おもうち復したるが常なれば、それお後には、上の折敷にとぢつけたるより、一つの器とはなれりける、さてより置物の机などのさまに、穴えりて足となせるより、四方三方などてふ事はいできにけり、彼四方とはまたく四つ足なり、飛騨守惟久がかきつる、八幡太郎の軍の絵に、武衡家衡等が郎等ども、なみ居てものくふ所に、皆四方にてすえわたしたり、されば穴えりたるはじめは、穴だにえればみな四方なりけめ、さるお後に親王大臣は四方、納言以下三位以上は三方、其已下は穴えらの衝重とは定められし成べし、さて四方三方も誠しくは四方えりの衝重、三方えりの衝重といふべきお、略して四方三方とはいふなり、今も四方三方の筒のとじめのきり前なるは、彼打復したる折の遺風なりけり、古へは王卿などは、公の御前ならで、いたく衝重用うる事はなし、私には台、又は仮初なるには折敷高坏お用ひたるに、彼四方えり三方えりなどいふ事のいできてよりぞ、折敷高坏にもかへ、台にもかへて、用いけるより、何本立とも呼なるべし、