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世事百談
樽人形
ある人の説に、延宝、天和の頃のものにやとおもへる、浮世絵お見しに、そのおもむき遊女のごとき女の、小き樽に衣おうちかけ、編笠おきせたり、おもふに酒宴などの席にてのたはむれにて、遊女のもてあそびとのみおもひしに、宝暦七年の印本に、絵本咲分桜といふ冊子に、こゝに載する図〈○図略〉あれば、そのころも猶この戯れありしことゝ見えたり、これによりておもへば、遊女のみのことにはあらで、なべて花見野がけなどのおりから、興じもてあそびしなるべし、ある日柳亭翁に、この樽人、形のゆえよしおとふに、翁いへらく、一老人の話に、むかし人形樽(○○○)といひしものあり、野遊などに持ち行ぐとき、ふくさやうのものに包めば、その形木偶に似たるおもて、名お負せたり、さてその樽に小児の小袖、または羽織など打ちきせ、人形廻しの戯れおなしゝが、つひにひとつの遊戯となりて、はては酒おいるゝ事おば用とせず、木偶まはしにたよりよきやうに作り、花見幕の内などにて是お興ずるなり、人形樽の詞お転じて、樽人形といひけるとぞ、西武撰の砂金袋〈明暦三年印本〉に、
影うつせ人形樽のかゞみ餅 康重
人形樽の名はふるくこゝに見えたり、また山岡元隣が宝蔵〈万治の印本、後に幸蔵と名お改む、〉の花見の事おいへる条に、こゝら行きかふわび人の、人形樽につめ懐弁当におさめて、花はいづれの情に見つるかしらねども、とり〴〵ほこりがなる顔つきも、実に春は春なれやとあり、これらにて人形まはしに用ひしことはいはざれど、人形樽の名のあかしとすべし、また桃青が俳諧次韻〈延宝九年撰〉に、
前 楽(らく)やつこかくれて風流林とよぶ 其角
附 樽に羽おりおきせてあふぎし 桃青
この句かの樽お人形として、まはすことのあかしなりけり、