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鶉衣前篇

摺鉢伝
備前のくにゝひとりの少女あり、あまざかるひなの生れながら、姿は名高き富士の俤にかよひて、片山里に朽はてん身お、うきものにや思ひそみけん、馬舟の便につけて遠く都の市中に出て、しるよしある店先に、しばしたづきおもとめけるに、師走の空いそがしく、木の葉お風のさそひ尽す比は、世も煤掃のふるきおすて、物みな新器お求るにつれて、ある台所によき口ありて、宮仕の極がてら、摺木と聞えしもとに、うち合せの夫婦とはなりける、かれは柏木の右衛門にも似ず、松木のあらくましき男ぶりながら、少もかざりなき気だてのまめやかなれば、女も心に蓋もなく、明くれいそがしきつとめも、おなじ心にはたらきて、とろゝ白あへの雪いたゞくまで、糊米のはなれぬ中とねがひ、水もらさじとはちぎりけるに、その比せつかひといひしおのこは、檜のきの木目細かに、その姿やさしきから、昔は御所にうぐひすの名にも呼れしが、おなじつとめの夜ふくる時は、走水の下のころびねがちなるお、よそのいがきの目にもれしより、さらでも住うき傍輩の中に、はしたなき間ん鍋の口さし出、杓子の曲り心よりうき名は立そめ、炮〓さへ仲ま破れして、あくくれ茶釜にふすべられ、なら坂やわさびおろしのふた面、とにもかくにもたゝずむかたなく、身おあへ物の顔よごれぬれば、買臣が妻の恥おいだき、手ならひの君のむかしお思ひ、つひには土にかへるべき、無常おや観じけむ、ある夜鼠のあるゝまぎれに、棚の端より身お投けるにぞ、顔かたちかけ損じ、見にくきまでの姿にはなりける、かくては食物のつとめ協はじとて、あるじの怒りはなはだしく、石漆の妙薬にも及ばず、妹背の中も引わかれ、内庭まで下られたれども、猶さみだれの折々は、雨もりの役につらなれば、いとゞ長門の涙かはく隙なく、こゝにもすはりあしくなりて、井戸端にころがり出、蓼葎に埋れて後は、たれ哀とふ人もなかりしに、ほどなく露霜も置うつり、壁の虫の音もかれゆく比ならん、間ぢかき寺の門番にひろはれ、ふたゝび部屋にかくまはれながら、ならはぬ火鉢にさまおかへ、酒おあたゝめ、茶お煎じて、ことしは、こゝにうさお忍びしに、やゝ春雨に梅もちりて、きさらぎの灸もすめば、また灰おさへ打あげられ、唐がらしといへるものお植られしが、からき目ながら、さてあらばあるべきお、それさへ秋のいろみ過つヽ、ついに橋づめの塵塚によごれふし、果はさがなき童部の、まゝごとにくだかれ、行へもしらぬ闇の夜の、礫とはなりけるとぞ、