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歷世女装考

櫛の始原、擲櫛お忌縁、湯津津間櫛の考、
此説〈○古事記伝〉に拠ば、湯津津間〈又爪〉櫛といふは、何にて作りたる質かはしられねど、歯はしげくせまりて、今の櫛よりは長き物なりといふ解なり、〈○中略〉窃に謂く、〈○岩瀬百樹、中略、〉櫛の火に燃るおもて、木なる事論おまたず、すでに湯津桂といふ木もありしおや、〈○中略〉和名抄〈木部〉柞四声字苑雲、柞和名由志、漢語抄に雲、波々曾木の名、堪作梳也とあり、湯と志とは音近きゆえに、湯津の津お後年には由之といひけんかし、〈○中略〉これらに拠ば、柞は和漢ともに梳材〈梳は櫛と同字〉なる事和漢同じ、柞お近くは国によりて、はゝそ、くしの木ともいふ、〈本草啓蒙〉しかれば今偽黄楊とする櫛は柞にて、神代の湯津津間櫛も柞木櫛なるめりとぞおもはるゝ、〈○中略〉さて津間櫛といふ名義、〈○中略〉窃におもへらく、歯のつまるは櫛の常体なり、けだし梳に対てつま櫛といはんも穏ならず、おのれは袖中抄に、つまは妻の義かといふ説に従事、愚按に、妻櫛といふ義は、左右の鬢に相対て双つ刺物なれば也、此櫛一枚にては奇にて用おなさず、それいかんとなれば、上代の男は、髻おば一つに結て双にわけ、左右へ綰たるお櫛にて刺貫て宿おくなり、これお鬢といふ、〈○註略〉されば件の黄泉段にもはじめは左りのびんづらの櫛おなげ玉ひ、二度目は右のびんづらの櫛おなげ玉へり、〈○註略〉必一対なればならぬ物ゆえに、夫婦に儀て夫婦櫛といひけんかし、〈○中略〉一日学友来りて物語のつひで、櫛の事おかたりしに、いふやう前年西遊せし時、南都の達識穂井田忠友翁の宅にて〈同人撰〉観古雑帖〈写本〉といふ物お視し中に、一古寺の宝物とて、神代の櫛お視て摸写たるお一覧して、心に忘ずしか〴〵なりしときゝてうれしくその儘席上にて、闇記の図お写させたるお下に出す、此図おみれば、むかしは櫛おかんざしともいひしはうべなり、髪おとかすべき物にあらず、因ておもふに神代に解梳は別に有けんかし、長さ九寸余、幅二寸五分余、木にて作りたる物、作りさま古朴なり、木の質弁じがたしとぞ、此図お視れば、伊奘諾尊櫛の男桂おかきとりて、火に燭し玉ひて伊奘冊尊の屍お照し視玉ひしも、彦火々出見尊のうがやふきあへずのみことの生れ玉ふ所お視玉ひしほどの間ありしも、櫛の大さにて実にとぞおもはるゝ、又黄泉段のところに、櫛お引かきてなげうち玉へば、生笋なりとおもひて、醜女が抜食しも、おのづから櫛の形ち見ゆ、
但しなげ玉へば、神通にてそのまゝ其物となりしなり、