[p.0396][p.0397]
平賀鳩渓実記

源内櫛の事
源内は、種々心お配りて、兎角世上へ流行事お工夫しけるが、風と思ひ付て、伽羅お長崎より多く持参しけるお取出して、是お櫛に挽せて、銀にてむねお一分通りに覆輪お懸、是お世上へ弘めんと、当時吉原にて名高き遊女、丁子屋の雛鶴こそ歷々も御出なさるゝ名あるものなれば、何卒彼にさゝせんと便おもとめけるに、こゝに一瓢といへる牽頭(たいこ)持あつて、浅草茅町に住居しけるが、彼お密に招き申しけるは、〈○中略〉何卒其方が宅へ招き、我等が胸中おはらさせよと余儀なき体に申けり、一瓢、〈○中略〉早速承引して、〈○中略〉雛鶴が座敷へ行、四方山の物語して申しけるは、雛鶴さまへ、近頃余儀なき御無心御座候御協ひ可被下やと改めて頼ければ、〈○中略〉相応の事ならば、承知致さんと申ける時に、〈○中略〉一瓢は大きに悦び、直に源内が宅へ行て、しか〴〵の趣お語りければ、源内は大きに悦び、明るおまつて一瓢が宅へおもむきけり、
源内雛鶴へ初て対面之事
斯て源内は約束の日限にも及ければ供人召連れ、一瓢が方へ趣きけるが、未だ雛鶴は来らず、一瓢も酒肴の設念比にして、今やおそしと待居たり、程なく雛鶴は駕籠にうち乗、一瓢が表口へ這入ければ、待まふけたる一瓢、やがて座敷へ案内して源内へ引合せけり、源内も興に入て、酒数献に及て、已に日も西山に傾きたれば、源内雛鶴へ申けるは、先もつて今日は日比の存念晴候て、此上もなき大慶なり、今日の悦、何ぞ進上申たけれど、指したる土産もなし、是は近比麁末ながら、先年我等長崎表より持参せし伽羅お以て、態々此度挽せし櫛也、用立てくれられなば、大悦至極と述ければ、雛鶴も嬉しげに、金銀のかゝりしは、さして賞玩もなき物なれど、唐土より長崎へ来る伽羅の、また江戸迄持参し玉ひしお、私に給り候御志と申、遠来の名器、実に匂ひゆかしく候也、以来は他の櫛お用ゆまじと、源内に暇乞して、浅草さして帰りける、源内も立別れ、一瓢に一礼述て、我家おさして帰りけり、源内も満足せしとかや、此櫛世上にて源内櫛と名付、江戸一統、今以て流行す、されども其始る所お不知なり、