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歷世女装考

瑇瑁お斑なしに作る起立
寺島良安翁、此書〈○和漢三才図会〉お作りし頃、今の如くべつかふの透所のみ断截接合事あらば、右の文の下へ其事おいふべきにいはざるは、折たるおつぐ事のみにて、今の職術はしらざりしとみへたり、然ればきりよせてつぐ事は、何れの比及にやあらん、其源お尋ぬべしと、正徳〈今より百三十年ばかりまへ〉以来の書どもお、俗にいふぢごくさがしに尋ねけるに、ありげにおもひしにはなくて、おもひの外なる俗書にて一証おえたり、〈○中略〉旧友玳瑁楼照義老人のもとに至りて、〈○中略〉接合事の起立おぼへありやと尋しに、翁謂やう、我家は、今に三代玳瑁の職お業とす、父は元文元年の生れにて、享和十年酉のとし、七十七にて身まかりぬ、父がはなしにきゝしは、享保の中比、長崎より江戸に来りし回国の六部、べつかふ職の者にゆかりありて、杖おとゞめしうち、病に臥し、日お経て全快したる礼謝にとて、べつかふおつぐ事おおしへしより、はじめて櫛笄のおれたるおつぐ事おしり、のちには弟子にもつたへ、世にひろまりしが、いまだ今の如く切抜つぐ事はしらざりしに、元文年中にいたり、職人の中に、よせてつぐものいできて、追々ひろまりしが、いまだ今のやうに、鋏拐(かなばしかせ)おはめて継事はしらざりしゆえ、けふは誰が所にてつぐ日なりとて、そこにあつまり、かはるがはる鋏お握りて継ぎ、たがひに助けあひけるに、仲間の内に一人、他の力お借ず、人よりは多く、細工おなす者ありし故、其術お尋ねしに、秘して教へず、然るにこの職人、賭に身おはたし、細工道具お箱に納、錠封して質入れし、京へ上りし後、絶て音信なきゆえ、職人どもいひあはせ、かの質物おうけ出し、箱おひらきて、はじめて道具の便利なるおしりけると、父が聞つたへしとてかたれり、