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歷世女装考

今の如く簪おさしたる起原
完永以来完文の末まで、五十年ばかりの間の画軸板本のるいの女絵どもには、首飾一品もみえず、延宝、天和、貞享、元禄、此間三十四年、菱川師宣が絵本あまたあれど、遊女すら髪のかざりなし、櫛はさしたる事、書にはまれにみえたれど、絵にはみえず、貞享五年板〈此年元禄と改元〉好色盛衰記〈巻三〉に、今の女、むかしなかつた事どもお仕出し、身おたしなむ物道具数々なり、首筋より上ばかりに入用の物ども十六品あり、まづ髪の油、鬢付、長かもじ、小まくら、平鬠(ひらもとゆい)、しのびもとゆひ、かうがい、さし櫛、まへ髪立、紅粉、白粉、歯黒、きはずみ、おもり頭巾、留針、浮世つゞら笠、あらましさへ此通りぞかし、かくかぞへたてし中にも、かんざしはいはず、然ども是より二年前、貞享三年板一代女〈前なるも此書も大坂の板〉巻三に、琴のつれびき遊しける時、かの猫おしかけけるに、何の用捨もな 奥様のおぐしにかきつき、かんざしに小まくらおとせばとあり、おもふにこゝにかんざしといひしはめづらし、此書は、一人の女、さま〴〵に世おわたる一代おしるしたる物なれど、全部五冊の文中、此一本のかんざしのみにて、さし絵にもかんざしみえざれば証としがたく、此後廿七年たちて、正徳三年板、本朝廿四貞、〈巻三〉辻にて益踊の所、現おぬかし、心おうかして踊る子どもの、さし櫛かんざし、首に掛たる丹前帯とあり、おもふに踊に出る乙女ゆえ、常にはさゝぬ櫛もかんざしも、さしかざりつらん、しか思ふよしは、正徳六年板とある〈此年亭保と改元〉絵本園若草〈京板、大本全三冊、西川祐信筆〉に、あまたの婦女お昼たる中に、櫛笄はのこらずさしたるさまおえがき、かんざしさしたるは四人みゆ、〈○中略〉完永の比及より元禄中まで八十年ばかりの間、江戸にて上梓の浮世草子は甚希也、〈○中略〉ゆえに前にあげたるは、皆京大坂の風俗なり、されど物の流行は、天の左遷に順ふ物ゆえ、都浪花の女風も、おほかたは東したるなるべし、さればかんざしさす風も然らんかし、つら〳〵おもふに、びん付油といふ物、〈○註略〉世に出てのち、髪のゆひぶりもくさ〴〵あれば、むかしのすべらかしよりは、かしらも痒からんに、師宣〈○菱川〉が天和元禄あたりの画などには、北廓の遊女すら、櫛も笄もかんざしもみえず、かしらの痒き時は、爪もてかきしや、〈○中略〉遊女などさへかんざしさゝざりしはいぶかし、さて件の書どもおよみわたして按ずるに、今の如く人みなかんざしおさす風になりしは、おほかた元文あたりよりの事とおもひしに、はたして一証おえたり、我衣、〈此書は、元禄以来の雑事お、古老に聞あつめたる写本の随筆、安永の比お盛に歷たる江戸人曳尾庵作、〉花簪(はなかんざし)は、元文完保の頃、舞乎など、銀の梅の枝に、銀のたんざくおつけたるおさす、ゆきゝすれば、音のするやうにこしらへたる物なり、其頃世にはやるとあり、然れば常の簪もさしたること明し、是今より百年のむかしなりけり、