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おろか於比

南方鑷
諸の道中記には漏たれど、尾張宮宿の〈○中略〉南方の鑷は、古来隻一家にて、あまた売るゝものにもあらねば、贋物お造る人もなく、分家などいふもある事なし、完永十五年重種の編集しける毛吹草〈四巻〉諸国名物にも載て、尾陽発句帳〈撰集の年月おしるさず、明暦のころの古調也、〉上巻にも、
柳 南方のかぜは鑷の柳がみ 何人
と詠り、〈○中略〉南方は北につきての称号かと思ひしに、此鍛に通称次郎左衛門は世々中山と名のれるよし自いへり、此家の招牌極て古朴なるものなれば、先手習おきつるおこゝに縮写す、文字は皆彫上たるものなり、〈○図略〉
義教将軍の頃より有無は、何ともいひがたけれど、いと古き名物なる事は論なし、今も他物は造らず、鑷のみ製して世お渡るは、めづらしき家なりといふべし、