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我衣
伽羅の油は古来なし、〈○中略〉大坂落城の時、木村長門守重成、河内若江口にて討死す、必死ときはめ、首じつけんのはれにせんと、伽羅お胡麻の油にて煎じ髪にすきこむ、家康公其必死と極めたるお感じ〈井伊掃部頭内安藤長三郎木村お討〉たまひて、御褒美の御詞ある、此事諸書に少しの違ひあり、是伽羅の油の始なるべし、
完文年中、日本橋室町一丁目へ若衆方中村数馬、伽羅油の見世お出す、少し前に糀町へ谷島主水といへる女方、油見世お出す、是油みせの元祖なるべし、浅草虎や一之進は又少し其後なり、其比武士は油お付れども、町人百姓は油元結お不用、依之遠方にても曾て事欠ず、用の序に油お求めに来る、正徳迄は蛤具に一両入、二両入、三両入、曲物五両入、
中村数馬
上油一両に付代廿二文 極上白匂油一両代三十六文 極上々黒匂油一両代四十文
右之通にて売に、甚買人多し、勿論蟻は下直なるゆへ、至極吟味致し、香具お入、以梅花練ゆへ直段甚高直なり、宝永年中より髪結床にて晒蠟計の油おつかふなり、十五両に付百二三十銭なり、長くして紙に包、正徳より世上蛤貝お不用、皆々包紙になる、油も麁相なり、四両五両といへ、価四十銭、或は五十文、或は百文に十四両に売なり、