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槐記
享保十年六月十五日、古より軟障曲屏とて、今日本の屏風のことに用たること、歷々の書に見へたり、猶らしき字なりと思ふから、いかやうにも漢の書にあるべしと、近年思召て、ひたものさがさるれども見へず、宿儒老僧などにも問へども不知と答ふ、源氏物語などにも、軟障といでて、古へよりせんせうと読来れり、季吟などの湖月抄にも、せんぜうと仮名付して、出処もなければ、音義も沙汰なし、何と工夫しても、文字は漢字なるべしと思召て、久しき御不審なりしが、この度ふと通雅にて御覧当りなされしが、軟障曲屏は、其制出于日東と書たり、さればこそ制も文字も、日本より出たるとは、しらるれと仰らる、総じて此公の御考、凡て如此、一旦に大方に出処になるべきこと出ても落著せぬお、むり済しにせず、数十年おへても御失念なきゆへ、御若年よりすまぬことの、近年済たること多し、