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古今著聞集
十一/画図
南殿の賢聖障子は、完平の御時始てかゝれける也、其名臣といふは、馬周、房玄齢、如晦、巍徴、〈自東一〉諸葛亮、遽伯玉、張良、第五倫、〈同二〉管仲、鄧禹、子産、蕭何、〈同三〉伊尹、傅説、太公望、仲山甫、〈同四〉李績、虞世南、杜預、張華、〈自西四〉羊祜、揚雄、陳寔、班固、〈同三〉桓栄、鄭玄、蘇武、倪完、〈同二〉董仲舒、文翁、賈義、叔孫通、〈自西一〉等也、此人々の影おかゝれける、彼麒麟閣の功臣お図せられたる跡おおはれけるにや、はじめは色紙形に銘おかゝれたりけり、されば道風朝臣の申文にも、七度けがせるよし載たり、其銘いつ比よりかゝれずなれるにか、当時はみえず、色紙形ばかりぞ侍りける、承元に閑院の皇居焼、即造内裏ありけるに、本は尋常の式の屋に、松殿作らせ給たりけるお、此度あらためて大内に摸して、紫宸、清凉、宜陽、校書殿、弓場、陣座など要須の所々たてそへられける、土御門の内裏のかゝりける所とぞ聞えし、地形せばくて紫宸殿の間数おしゞめられける、〈○中略〉くはしく尋て注すべし、大内にては、此障子おみなはなちおかれて、公事の時計ぞ立られける、御秘蔵の儀にて侍けるにや、建暦に閑院にうつされて後は、すべてとりはなたるゝ事なし、又鬼間の壁に白沢玉おかゝれたる事は、むかし彼間の鬼のすみけるお、鎮られける故にかゝれたる事とは申つたへたれども、たしかなる説おしらず、又清凉殿の弘廂についたち障子お立て、昆明池お図せられたり、そのうらに野お書て、片方に小屋形あり、又近衛司の鷹つかひたるおかけり、是は雑芸に侍る嵯峨野に狩せし少将の心とぞ、彼少将といふは、大井川のほとりにすみける季綱の少将の事にや、かの大井の家お出て、嵯峨野に狩しけるおうつしけるにこそ、又萩の戸のまへなる布障子お、荒海の障子と名付て、手長足長など書たり、その北うらは、宇治の網代お書り、清少納言が枕草子に、此障子の事も見へたり、一条院このかたにかゝれたるとこそ、大かた清凉殿の唐絵にも、みな書ならはせる事ども侍り、
渡殿に、はね馬よせ馬の障子お立て、又同じ渡殿の北辺、朝がれいの前に、馬形の障子侍り、陣座の上に、李将軍が虎お射たる障子およせかけ、校書殿には、養由基が猿お射たる障子お寄立たり、これみないづれの御時よりといふ事おしらず、由緒かた〴〵おぼつかなし、閑院に大内お移されて後、よせ馬の障子、並に李将軍養由が障子など沙汰なかりけるお、四条院御時、西園寺相国禅門修理せられける時、頭中将資季朝臣申起てたてられたり、いと興ある事也、此障子の絵本ども、鴨居殿の御倉にぞ侍なる、建長造内裏の時、絵所の預前加賀守有房、絵本おもたざりければ、取出してかゝせられけり、昔し彼馬形の障子お金岡が書たりける、夜々はなれて萩の戸の萩おくひければ、勅定有て其馬おつなぎたるていお書なされたりける時、はなれず成にけりと申傅へ侍るは、誠なりける事にや、