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碩鼠漫筆

いなばき筵(○○○○○)
上京或は近江辺に、いなばきと呼ぶ筵あり、こは古くよりある物にや、今江戸にて雲ふ餅むしろ(○○○○)に似たりと、或京師人のふと問し事有しに、うちつけには覚悟なき事ゆえ、しらのよしお答へたりき、偖その後におもひがけず、是彼より見いでたれば、書とりて遣したり、そはさして益もなき物から、実悟記〈春村按に、実悟は、本願寺第八世蓮如上人の第十子、願得寺兼俊と雲し僧なり、〉雲、野村殿にては報恩講七日の間、廿一日の晩景より、縁廊下御堂の縁、御堂へ参、候、道すがらこと〴〵くいなばき(○○○○)おしかれ候事なり、御堂の大庭には、いなばきお縄にてつなぎて、総の庭にしかれ候、雨ふり候へば、まきて内へとられたる事にて候、聴聞衆庭に各いなばきの上に、堪忍ありがたき事なりと、毎年各被申事にて候、〈中略〉野村殿に実如上人御座候時、〈年記忘〉江州山家へ、将軍義種御没落之時、〈春村按に、永正十年三月十八日に係る、山家は、甲賀山中也、又義種は諸記義稙に作れり、〉都へ御帰洛之時、〈按に五月三日なり〉伊勢貞宗江州へ御迎に参候之時、山科葬所通候とて、御坊へ被申入候事は、此葬所お御所御通候べき由申て、葬所如何候間、無常堂の跡前そとお、つヽませられば可然由、貞宗被申入しかば、安き事、報恩講大庭にしかるヽいなばきおもたせ、打かけ〳〵つヽませられ、即時に一円に堂もみえぬ様に、つヽませられ候へば、勢州きもおつぶし、此大なる堂つヽまれたる事は、何方にも不可有候とて、貞宗感じ候けると、其比の沙汰にて候つる事に候〈中略〉正月十五日の間も、山科殿にて御堂縁南殿北殿道すがら、皆いなばきおつなぎしかれたる事にて候、当時も覚たる人も御入候べく候雲々、築城記雲、弓かくしば三尺ばかりに在之、いなばき筵まづは可然候雲々、甲陽軍鑑巻十九〈信玄居士葬送条〉雲、道六間広く、両方に虎(もがり)落おゆひ、いなばきお敷、其上に布おしき、其上に絹おしき雲々など見えたり、但此等よりもはるかに古き、応安二年の田畠注文〈正木文書中所収〉に、許多(あまた)ところあるおも見し事あれば、重ねてこゝにしるしそふべし、又出羽国本荘人雲、我郷にては上品の筵お、庭ばきと雲ふといへり、恐らくは是も同物にて、はきとは散こぼれたる稲穂お、掃よする義なるべし、