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安斎随筆
前編四
差筵 差筵の名旧記に見えたり、近くは後水尾院年中行事、正月七日の条に、〈上略〉日野烏丸柳原は外様なれど、常の御所〈御註、当の御所の御座、清涼殿、皆一所にて三名也、〉にて御対面あり、誰にても申つぐ、御礼申て後、さしむしろに候ず、〈御註〉御ひさしの未申の角の畳一帖お撤して、さしむしろ一枚おしく、このさしむしろ、正月朔日より敷て、正月中有也雲々、樋口秘記雲、差筵とは、年頭に禁中へ摂関衆の御礼は、さしむしろと雲て、其礼申さるゝ畳お一帖うちかへす、其うへにて御礼也、是おさしむしろと雲、畳のうらとぢてとあり、地下の書院畳のうらの念の入たるうらのやうなるもの也、このうらかへすが規模也、摂関の外は常の畳のうへの事也、しかるに勧修寺と柳原とが旧例にて、差筵の御礼なり、柳原別して規模とす、日野も其通り也と見えたり、 貞丈按、古代は常の畳と差むしろとは別にてありしなるべし、後代禁中の事、大体省略せらるゝ事あるによりて、常の畳おうらがへして、差むしろに用ひらるゝ歟、其製の相似たるゆへなるべし、