[p.0143]
本朝軍器考
十一
床几(○○)といふ物は、古の胡床也、胡床は倭名抄に、此間には阿久良(あぐら)といふよし注せり、〈○中略〉天若日子、胡床に寝たりし、高胸坂にあたりて死すといふこと、古事記にあれば、此物神代よりありけるにや、たヾし風俗通に、霊帝胡服お好み給ひしほどに、京みな胡床作れりとあれば、異朝には、後漢の末に出来し物也、又器物叢談といふ物に、胡床は胡人偃坐して睡れば、此の名お得たり、隋の時に懺に胡といふ字ある故に、改めて交床(かうしやう)といひしお、唐代より縄床(ぜうしやう)となづくとはしるせり、風俗通の説によれば、胡国より出づ、叢談の説によれば、胡国よりは出でねど、偃坐して睡るべき物なれば、胡人の俗に似たりとてかく名づけし也、いづれにもあれ、後漢の比にや出来ぬらんお、我が国の地神の代に此の物あるべしと思はれず、さればにや旧事紀、日本書紀には、ただ天稚彦のふしたりとばかりありて、胡床に寝たりしとは見えず、これは古事記撰ばれし時に、此の物すでにありしかば、今見る所によりて、神代の事に、此の文字お誤り用ひたる也、古の時戦場に用ひしもの、今世にある制にはあらずといふ人あり、心得がたしや、用明天皇崩じ給ひし時、帝の御弟穴穂部皇子の三輪君逆お殺さんとて、物部守屋大連と兵お将て其家お囲まる、逆の君のがれて後宮にかくれしかば、皇子は大連してそれお討しめ、みづからは胡床にしりうちかけて、まち給ひしといふ事あり、これ昔戦の時、此の物用ひられし証也、もしは又其の形今の物にあらずといはヾ、梁の廋肩吾胡床の詩に、伝名乃外域、入用信中原、足欹形已正、文斜体自平、といふ物は、今の制にあらざらんやは、彼梁の代は、我国にして用明天皇の御時よりは、猶少しくさきの代にぞあたり侍り、