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骨董集
上編中
挑灯挑灯のはじめ詳ならず、古今夷曲集客人の帰るさ送る挑灯はまうしつけねどいでし月影、定家卿とあれども、此歌古書に所見なければ、証としがたし、秋の夜長物語、後堀河院の御宇に、西山のけいかい律師といへる人、三井寺の梅若といへる児お恋、同寺の或坊にかくれ居たるに、此児其坊へしのび行ことおかける条に雲、ふけ行かねつく〴〵と、月の西にめぐるまでまちかねたる所に、からかきのとお人のあくるおとするに、書院の杉障子より遥に見いだしたるに、れいの童〈梅若に仕ふるわらはなり〉さきに立て、ぎよなふのちやうちんに、蛍お入てともしたり、その光かすかなるに、此ちご〈梅若なり〉きんしやのすいかんなよやかに、うちしほれたるていにて、見る人もやと、かゝりのもとにやすらひたれば、乱てかゝる青柳の、いとゞいふばかりなきさまに見えたるに、りつしいつしか心たよ〳〵しくて、ある身ともおぼえず、童ちやうちんおさそうの軒に懸て、書院の戸おほと〳〵とたゝきて雲々、醒々雲、こゝにちやうちんの名目見えたり、此物語は玄恵法印の作といへば、其来ること久しといふべし、按るにぎよなふは魚綾の誤にや、綾の字音りようなるお、れふと作、又〓ふに誤りしならん、れと〓とまぎれやすき字なればなり、魚綾は綾の名なり、唐制の挑灯にならひて制たるに、綾おはりたるならん、しかるときは蛍の光もすきとほるべし、当時は唐制にならへるものどもおほかり、蓋もとは仏具にやありけん、なほ考べし、当時挑灯の名目はあれども、常に用る物にはあるべからず、おなじ玄恵の作の庭訓往来に、挑灯の名見えざれば、しかおもへり、なほ諸書お参考するに、文安〈五〉下学集に、灯籠、行灯、挑灯とならべ出せり、これ籠挑灯なるべし、〈さきにもいふごとく、下学集は文安元年の書なり、〉宝徳〈三〉七十一番職人歌合に、たち君お見る男続松お持たれば、当時も挑灯お用る事まれなりし歟、享徳〈三〉鎌倉年中行事管領のもとへ、御参の行列の事おいへる条に、続松二丁行灯一もたせべしとありて、挑灯のことなければ、当時ももはらにはもちひざりし歟、康正、〈二〉長禄、〈三〉完正、〈六〉文正、〈一〉応仁二文明、〈十八〉尺素往来に、挑灯の名目見えざれば、文明以前は用る事まれなりし歟、長享、〈二〉延徳、〈三〉明応、〈九〉文亀、〈三〉饅頭屋節用に挑灯の名目見えたり、此時代すべて籠挑灯なるべし、〈此節用集はさきにもいふごとく、文亀中の書なれば証とすべし、〉永正、〈十七〉大永、〈七〉或古記大永三年の条に、門にちやうちん二つかくるといふこと見えたり、享禄、〈四〉天文、〈廿三〉穴太記天文十九年の条に、中間に挑灯おともさせたるばかりにて、忍びやかに出し奉る雲々とあり、これは葬送に用ひたるなり、北条五代記、〈片かな本、完文二年刻、〉巻之八に、天文年中、挑灯の指物お用ひたる事見えたり、弘治、〈三〉永禄、〈十二〉当時は既に桃灯おもちゆる事おほくなりしにや、甲陽軍鑑巻之一、永禄元年の令に、不断不可燃挑灯とあり、又巻之十下、永禄六年の条、軍用のことおいへる所に、小荷駄馬一匹に挑灯二つばかりづゝ結付、馬負にも一人に一つづゝ続松もたせ雲々とあり、かゝれば当時の挑灯は、もはら軍用にもちひたる歟、元亀、〈三〉天正、〈十九〉或古説に、永禄天正の比は、籠挑灯も今世のごとくたゝむ挑灯もありし也といへり、文禄、〈四〉慶長、〈十九〉好古日錄に、俗に雲箱挑灯は豊臣公の時始て制す、上下お藤葛お以編たり、板お用るは慶長以後の事と雲、天正已前の挑灯は籠に紙お粘して用ゆ、醒々雲、〈左にあらはす古制お見るべし〉此説に右の古説お合せ考れば、たゝむ挑灯は天正以後の物なるべし、元和、九完永、廿正保、四慶安、四吾吟我集〈慶安二年未得著〉君がふくほうづきなりの挑灯に身おつりがねの片思ひかな、といへる狂歌あれば、既に当時ほうづき挑灯といふものあり、承応、〈三〉明暦、〈三〉むさしあぶみといふ草紙の絵お見るに、長き竹のさきに丸き挑灯おつけて持たり、今の高挑灯のたぐひなり、手挑灯は見えず、万治、〈三〉完文、〈十二〉訓蒙図彙〈完文六年印本〉に、丸き挑灯に柄おつけたるあり、今ぶら挑灯といふものゝ如し、水鳥記〈完文七年印本〉の絵に、棒のなき箱挑灯あり、俳諧夜錦集、〈完文五年〉乾坤の箱挑灯かそらの月、〈保友〉かゝる句もあれば、当時は箱挑灯おもはら用ひたるべし、延宝、〈八〉延宝六年板菱川絵本に、箱挑灯に柄おつけたるものあり、当時よりもはらこれお用ひたりと見ゆ、隠蓑〈延宝五年印本〉附合の句に、おもひの煙ふところ挑灯と見えたれば、当時は懐中挑灯もありしなるべし、さて当時高挑灯には丸きお用ひたること、あまた見ゆれど、提ありく提灯には見あたらず、但神事葬送などには、丸きお用る事あまた見えたり、天和、〈三〉貞享〈四〉元禄、〈十六〉当時の印本の草紙の絵お参考するに、延宝より元禄の末まで、もはら柄のつきたる箱挑灯お用ひたり、棒おさしこみたる箱挑灯もまれにあり、雍州府志、〈貞享元年〉文匣並挑灯之類悉張脱之とあり、一代男〈貞享三年印本〉巻之四、民家の婚礼の図に、柄のつきたる箱挑灯お持て行体おかければ、式正にも用ひたるべし、宝永、七柄のつきたる箱提灯は、たゝまざればすえ置ことならず、不便なるものなれば、やゝすたれたるにや、当時より棒おさしこみたる、箱挑灯のみお用ひたり、正徳、〈五〉和漢三才図会に、棒おさしこみたる箱挑灯お出せり、享保、〈廿〉西川祐信の絵本、其外当時の絵お見るに、もはら棒おさしこみたる箱挑灯お用ひたりさて享保十七年の印本、万金産業袋巻之一、挑灯の類おいへる条に、馬ぢやうちん〈細書二〉鯨の弓おかくる、かくの如く見えたり、これおもて按に、今弓張挑灯といふものは、馬上挑灯といふが本名にて、元は武家方に始まりしものなるべし、享保以前の絵に、此挑灯所見なし、享保以後にもはらおこなはるゝものなるべし、挑灯といふものいできてより、今の弓張挑灯ほど便利よきはなし、これにかぎらずもろ〳〵の器物、昔にくらべて、今のまされる物おほかり、唐土には今もたゝむ挑灯なしと聞、唐紙は性よわきゆえに、挑灯傘の類、紙おもて製(つくる)ことあたはず、実に御国の紙は、万国にたぐひなき至宝なり、〈○中略〉
羽州籠挑灯図〈○図略〉 総高曲尺二尺一寸余、籠高一尺二寸余、すべて表に紙お粘て用ゆ、籠お上へあげて火おともすやうにつくる、台の板に竹の筒お立て、右の松やにらうそく〈○松脂蠟燭載蠟燭条〉お立る料とす、
羽州にて今にこれお用ゆ、これ天正以前の挑灯の古製お見るべき物なり、形の異同大小もあるべし、〈○中略〉雪のふる道、羽州の民家のさまおいへる条に、雪の降そふにつけて、こもりおれば、つれ〴〵もせむかたなきまゝ、見なるゝものおえにかきてなぐさむ雲々、大路おたづさふるともし火は、まろくひらなる板に、ほそき木おふたつたてざまにつくり、それにまたひとつ横につくりそへてさげありくたよりよし、おほひおば籠にて造り、紙おはりてもてありくなり、