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源平盛衰記
四十四
神鏡神璽都入並三種宝剣事
景行天皇四十年夏六月に、東夷背朝家、関より東不静、〈○中略〉十月朔癸丑、日本武尊道に出給ふ、戊午先伊勢太神宮お拝し給ふ、厳宮倭姫命お以、今蒙天皇之命、赴東征誅諸叛者、こヽに倭姫命、天叢雲劔お取て、日本武尊に奉授雲、慎て無解事、女東征せんに危からん時、以此剣防て、可得助事、又錦袋お披て異賊お平けよとて、叢雲剣に錦袋お被付たり、日本武尊是お給て、東向、駿河国浮島原に著給、其所凶徒等、尊欺んが為に、此野には麋多し、狩して遊給へと申す、尊野に出て、枯野荻掻分々々狩し給へば凶徒枯野に火お放て尊お焼殺さんとす、野火四方より燃来て、尊難遁かりければ、佩給へる叢雲剣お抜て打振給へば、卯に向草一里までこそ切たりけれ、援にて野火は止ぬ、又其後劔に付たる錦袋お披見るに燧あり、尊自石のかどお取て火お打出、是より野に付たれば、風忽に起て、猛火夷賊に吹覆、凶徒悉に焼亡ぬ、偖こそ其所おば焼詰の里とは申なれば、此よりして天叢雲剣おば草剃剣と名たり、彼燧と申は、天照太神、百王の末の帝まで、我御貌お見奉らんとて、自御鏡に移させ給けるに、初の鋳損の鏡は、紀伊国日前宮御座、第二度御鏡お取上御覧じけるに、取弛め打落し、三に破たるお、燧になし給へり、彼燧お錦袋に入、剣に被付たりける也、今の世までに、人腰刀に錦の赤皮お下て、燧袋と雲事は此故也、