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蒹葭堂雑錄

今世火燧の木の面に、 本家明珍 と記せることは、一説に、享保九年辰三月廿一日、大坂堀江橘通二丁目金屋喜兵衛借屋妙智といへる老尼の宅より火出て、大火に及しより、妙智の火は能出るといへる譬よりして、文字お書更、明珍とせしよし言伝ふれども、是は正しく無稽の者の妄説にして、左にはあらず、明珍は鍛冶職の名字なり、〈○中略〉按ずるに、明珍は胄の鉢の鍛冶職なり、後世火燧おも錬て販しより其名残れり、猶余の鍛冶に勝れて、明珍の火燧は錬よきお以て、世に名高かりし故、終に火燧の銘とはなれるなり、然るに後世其火燧と共に、火口(ほくち)おも商ひて、是にも明珍の名お袋にしるせしより、今は火口の製法家の名と心得し人も有て、其濫觴お知人少し、