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製油錄

総論
貞観の頃、城州山崎の社司初て長木(ながき)と雲搾具お以て、荏胡麻の油お製り、禁裏お始奉り、男山大山崎両宮の灯明の料に献ず、是則草種子油の原始なり、〈其頃はいまだ油菜(なたね)の事はなかりき〉其後延喜帝の御時諸州より荏胡麻果子(このみ)の油お貢調せし事あり、大山崎〈今は山崎とのみよべり〉は草種お以て油お搾る事の元祖たるにより、代々の天子より綸旨院宣お賜り、鎌倉殿下より続きて御教書お給はり、課役お免除せられ、天下荏胡麻製油の長となさしめ給へり、ゆえに許状お受、油売ものは、印券お以て諸国に至るに、関おゆるし通せしよし、其頃は都お始め諸国へも油お売に出、又諸州の油売も、大山崎の許状おうけて売しといふ、又山崎の油売といへる歌、数首見えたり、追々諸国に荏胡麻果実お搾りて国用おなせしに、前にいふ摂津国遠里小野村若野氏、菜種子油おしぼり出せしより、皆是にならひて油菜お作る事お覚え、油も精液多く油汁の潔き事、是に勝るものなければ、他の油は次第に少くなり、且菜種子の油而已多くなりて甚国益となれり、是より遠里小野の油田仲間と称し、則村辺に掛札お出し、日毎に油の価お書記し、又其傍に油茶屋といふお建て、其所へ出る油売の輩、此所に集り休らひて、油の価の事どもお相議し、所々へ別れ売ありきしゆえ、今に於て油茶屋の名、田地の字に伝へて残れり、大坂は諸国へ通路便宜なるに随ひ、元和の頃より遠里小野其外油うりの輩、多く此地に引うつりしと見え、其後搾具の製作まで、追々細密に工夫お用ひたれば、明暦の頃よう古風の製具絶しと見えたり、〈○中略〉
関東の搾り方
一職人頭〈搾り人頭なり、是な関東にてはどやがしらといふ、〉
此者手間賃〈一日に付〉銀弐匁五分、〈但し〉立柱〈畿内にては立木といふ〉一〈と〉組に付壱人づヽ相用ふ、〈其外下働きあり〉
一下働〈但し〉一〈と〉組に付壱人づヽ相用
此者手間賃〈一日に付〉銀弐匁、〈但し〉道具一組にては三人しぼり、二組にては七人仕業まで出来るなり、
一壱人仕業菜種四斗〈但し頭壱人下働壱人ならば八斗しぼる也、〉
〈但し〉炒(いり)て碓にてふみふかし、塊打(たまうち)惚仕揚までなり、一食事は搾り屋の賄、〈但し〉其所により麦飯賄あり、
一種子搾り糟の儀は三人仕業にて
〈但し〉種子壱石弐斗にて、糟の塊八枚、此糟お塊にすることはどや頭拵る也、弐匁手間の下働の者はかまはず、
一炒鍋蒸釜(いりなべむしがま)とも二口までは一と通りにてよろし、四口のときは二通り用ふる也、
諸油垂口の事
菜種子は西国種子垂多しといへども、関東にても肥良の地に、肥しお多く施し作りたる種子は、垂口にかはることなし、奥州岩城辺の種子は弐割四五分はたるゝと雲、あしき所にては壱割七分より弐割ぐらいのもの也、野州戸奈良辺の種子も、弐割五分ぐらいはたるゝよし、九州辺の種子も弐割五六分出るは、筑後筑前肥後辺の上口ばかり也、援お以て考ふれば、全く土地と肥しとにて勝劣あれば、関東にても西国畿内に増りて生育すべし、偏に農人の手お尽すと尽さゞるとによれば、心お用ひ作るべき事にこそ、
一胡麻おしぼるは、菜種子のしぼり方同断也、垂口壱割七八分より、弐割五六分たるゝ也、猶地味と肥しとによりて高下あり、
一荏は壱人仕業五斗づゝなり、垂口壱割五分より壱割九分二割迄、是も土地によりて善惡あり、
菜種子お干事
搾り場に添て干場お二三畝歩ほど、地面よく少し片下りにして、雨の節水流れよく、早く乾くやうに拵へ、日あたりよき所お明置、搾るべき菜種子お筵にひろげ干べし、もつとも半時ほどづヽに筵の両はしおもて中によせ、又元のごとく手にてあせるか、此ごときものにてあせりて干べし、よき晴天には一日ほしてよし、日勢のるくば、二日も三日もほして取収る也、此干方よきほど油出かたよし、扠それお朝はかりて油搾りの方へ受取、〈是お前日受取て、しぼるかたわきよりいりて粉となし、翌朝よりしぼるごとく先ぐりに致すこと也、〉炒鍋にて炒る也、猶炒方六つかしきものにて、いりむらなくこげず、前めならざるやういりて、片はしよりさまし、夫お碓にてふみて粉となし、廿八の篩〈廿八とは壱寸の間に、廿八筋の糸のとほりあるおいふ也、〉にてふるひ、残りたるかすは、又ふみ〳〵して粉になりたるお桶に入、蒸籠の辺へ持行、是お元種子壱石弐斗お、三人にて搾るには、六つに取わけ、其一分お蒸籠に入てむして、袋につゝみ坪〈畿内にてはうすといふ〉の中に、金輪お重ね立桟おはめ、其中に入て左の図のごとく〈○図略〉正当石(しやうたういし)お置き、其石のうへに古き袋の切お敷、その上に棹お通し、矢おはめて、槌にて両方より打ば、油は桶〈此桶おとりべおけといふ〉の中へたるゝなり、先初打おしてしばらく置、又両方より打ば、油は一〈と〉しきり垂る也、かくのごとくすること三度ほどにして、矢お抜、棹おはづし、石おとり袋お出し、糟お打明押くだき、猶足おもて細かにふみくだき、すぐに碓にてふみ、〈此時壱人は碓の頭の方へ廻り、手おもて杵のさきへさきへと粉お寄、むらなく粉になるやうする也、是おもむといふ、又粉にしたるおおし粉といふなり、〉十八の篩〈壱寸の間に十八すぢ通りたる糸筋おいふ〉にて通し、炒鍋にて水気のとれる迄いりて、筵に打明て冷すなり、其間に蒸籠にて蒸たるお前のごとくして、又矢お入打々して六蒸(むし)仕廻て、右二番の粉にしたるお、五つに取わけ、一番のごとく蒸籠にてふかして、前のごとく打也、是お二番とも中(なか)ともいふ、但し此糟しぼりは、油の気の尽るお度とすることなれば、少しも垂ざるお見て矢お抜くなり、是お油搾りの詞には、だら〳〵三合、ぼた〳〵壱合といへり、扠棹おはづし石おとり、坪より取いだし、袋おめくり取、又前のごとくして搾ること五つなり、是も又前のごとく塊お片はしより踏くだき、碓にてふみ杵の辺へかきとめ〳〵、杵先のげぢ〈げぢとは杵先に金のはめたるところお雲〉の先へ、むらなくかゝるやうに念頃にして、随分粉の和らかになるやうにして、三十の篩〈一寸の間に三十かかりたるお雲〉にて通し、前のごとく六つに取わけしぼる也、是お揚とも三番ともいふ、此打揚の下手にては、油のこりて糟もあらし、油のよく抜たるは肥しに用ひてきゝめ宜しき也、抜ざるは壱石の手前にて、油三四升ほども減ずるなれば、心お用ふべきこと也、此糟壱枚〈一卜たまとも雲〉の目方四貫目づヽのものなれども、事により三貫七八百目もある事もあり、
水車搾りの事
水車搾りと唱え候は、摂津国武庫、兎原、八部の三郡〈鳴尾、今津、西の宮、深江、魚崎、御影、東明、新在家、大石、脇浜、二つ茶屋、神戸、兵庫、〉迄おさして摂と唱ふれば、此辺に搾る油はすべて水車にて粉となし搾るゆえ、水車しぼり、或は灘油とよべり、
菜種子お炒(いり)、人力おもつて碓おふみて粉にすべき所お、此水車は左に図する通り、〈○図略〉胴搗お仕かけ、夫にて粉とするゆえ、其手間大ひに違へり、搾りたる所の油はかはることなけれども、油の抜方あしきとて、糟の直段は人力搾りよりは少し劣れり、然れども石数多くしぼるがゆえ、算当は人力より宜し、
搾り人壱人、添槌(おへつち)壱人、親司(おやぢ)壱人、下働き弐人、〆五人にて種子三石六斗、綿実(わたみ)〈あら実也〉ならぼ三百貫目おしぼる也、常の人力にては弐石もしぼる所お、右の石数お搾ることなれば、はか行ことは水車にしくことなし、