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武家厳制錄
十四
一春日禰宜訴論に付、御下知条々、

一今度春日禰宜参府奉行所〈江〉訴之、年来長柄之傘指来候処、去比興福寺一臘代及社家方より、法式違背之由申之、従寺務も右之通雖被下知、従先規指来、今更之儀に無之候旨、禰宜依返答、社家呼下、数度遂穿鑿候之処、古例無之に相極也、且又寺務よりも以五師役者記錄相越之、並社家禰宜双方に而、日記等及周覧之処、寺務之記者、長禄之比、社家之記者、応永年中以来、祭礼之節も度度、禰宜長柄傘給之と相見へ、禰宜日記、明応之時分より指来候由雖書載之、此度従社家方申出趣は、禰宜平日自分徘徊之節之儀也、地下人長柄傘甚過奢たるの間、向後御幣神供物奉之外者、自今以後、堅可令停止事、
一禰宜不届有之而、社頭出仕従社家停止之儀、唯今迄任社家心雖申付之、以後者社家中吟味之上、寺務並奉行所へ相達、更指図、禰宜へ可申付之也、其外之儀者可為有来通事、
一向後社家対禰宜正路にして、非道不可申懸之、勿論禰宜者敬社家無礼仕間敷事、
右之趣堅可相守之、禰宜方より社家之儀、品々雖訴之、今般諍論之子細に無之、作然社家総而奢侈之体に相聞へ候間、向後奉背御条目、違失社法、於致私之訴論者、可被処厳科者也、
延宝六年十二月廿七日 松 山城守〈○中略〉
社家中 禰宜中