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守貞漫稿
三十/傘履
文政以来、二重張の日傘(○○○○○○)、〈紺紙と白紙と重ねはる、白お表にす、宣り三尺二三寸、価銀四五匁より金二朱也、京坂のみにて、江戸に不用之歟、今は三都ともに白日傘更に廃す、〉文政以前京坂に全あさぎ張、或は全く白紙張もあり、天保府命の時、大坂の官命に男子日傘、婦女の羽折お禁止あり、〈○中略〉
日傘は三都ともに女用専ら中と周りと紺紙、中間浅黄紙也、蛇の目と同制也と雖ども、日傘には蛇の目と雲ざる歟、此日傘宣り概三尺六寸、五彩の糸装束あり、男子は不用之、僧医も亦不用之、〈蓋江戸武家葵鬢の女、俗に雲御殿女中なる者は、専ら紺紙と白紙の蛇の目日傘お用ふ、紺浅葱の物と並用、〉京坂今世も専ら右の日傘お用ふ、江戸は近年全く浅黄紙張お用ひ、弘化以来雨天も用之、浅黄張及び雨天の日傘、宣り概三尺、或は三尺三寸、頃日は快晴にも専ら雨天傘お用ふ、〈澀引もあり、澀に水お和て淡く染たる也、方今は桐油お引く〉又近年〈天保以来歟〉骨竹お表裏に出し、紺紙、浅黄お挟み張たるあり、外面に竹皮お出せり、蓋専用に非ず、形普通の日傘也、再考、澀引日傘は文政中行る、