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落穂集

松平伊予守殿越前本家相続被仰付事
一問曰、当時諸犬名の中に、皮の油単お掛る挟箱お持せられ候、傍間々相見へ候へ共、就中越前家の御衆中の義は、不残皮油単の掛りたる挟箱御持せ候には、何ぞ子細有之事にや、其元には如何御聞候や、答曰、我等及承候は、故中納言殿御事は不申及、御息三河守殿御代も、今時御三家御同前の挟箱にて有之候、松平伊予守殿にば、姉け崎一万石拝領被有候節より、越後高田の城主に被仰付候以後迄も、常体の挟箱計りお御持たせ候処に、本家相続の被仰出以後の義は、諸事共に故中納言殿、三河守殿、両人の通りと有之儀も、先両人の通りに有之所に、完永二年大猶院様〈○徳川家光〉より御三家同前に、上野国に於て御鷹場拝領被仰付、是非共に在府候間久敷様に被仰付と也、其節江戸逗留の内、所々の御門番所、又は、途中に於ては、人々御三家と見違、歷々方にも下馬被致候衆中抔多く候に付、伊予守殿には、是非に難義有之、夫より挟箱に紋所の見へざる様にと有て、皮の油単お御掛させ候となり、然ば別に公儀の御差図と申にも無之に付、何時にても火事騒動人込の時節に至り候ては、上の皮油単おばはづし申筈に候と也、此油単の義に付、我等若年の節、浅野因幡守殿、丹羽左京大夫殿へ振舞に被参、夜に入帰宅之節、勝手座敷の内に、膳番所と申て、近習辺の侍共詰居申所有之、其前お被通候節、歩行頭役の者へ被申候は、其方支配の徒士の者に、梶川次郎左衛門義、我等方へ不参以前には、松平越前守殿に罷在たると申は、其通りかと被申候へば、成る程御意の通りに候と申せば、其義に於ては次郎左衛門お呼に遣し候へと有之、無程次郎左衛門罷出候へば、因幡守殿直に次郎左衛門に被尋候は、酉の年〈○明暦三年〉大火事の節、越前守殿には、竜の口屋鋪より浅草辺へ立退被申候時は、挟箱に掛り候皮の油単は御取らせ候と有るは、其通りかと御申候へば、次郎左衛門承り、越前守立退候節は、屋鋪の内所々より焼上り、殊の外火急なる義に有之候、越前守は玄関の式台の上より馬に乗るとて、供頭役の者お被呼、あの挟箱の油単おば、何とて取らせ不申哉、け様時節にも油単お取間敷ならば、覆の金紋も不入物也、急に取せ候へと被申候へば、あまり火急にて御座候へば、歩行中間者共寄り集り、引破り取捨候と申ければ、因幡守殿御聞有り、桑原定斎と申儒者へ被向、あの男が口上にて、埒明たる由御申候と也、