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甲子夜話
四十一
都下諸大名の往還するに、その行装尋常と殊なるあり、眼に留まる所おこヽに挙ぐ、〈○中略〉先箱の紋は金紋先箱と唱へて、何方も同やうなるに、岡山侯の先箱は黄紋なり、〈明和安永の比のこと、人口に膾炙す、〉又先箱金紋に非ずして余色お用ること、外には見ざるなり、〈○中略〉
先箱の覆にかくる革は長きもの多し、水口侯〈加藤氏〉の先箱の革は短にして、半分へかヽる赤色なり、
淀侯〈稲葉氏十余万石〉は当主は先箱お持せ、ず、傘にも袋おかけざるが、その世子のときは、先箱お持たせ、傘も袋に入るヽ、当主となれば始の如し、〈○中略〉
熊本侯の挟箱には、通例の如く覆縄はなくして、紫革お棒にかけ、蓋の間にせんおせしお、包める如くなり、〈○中略〉
府中侯〈毛利甲斐守五万石〉の挟箱には、赤革に朱紋なり、〈○中略〉
米沢侯〈上杉氏〉と吉連川氏〈左兵衛督〉は、挟箱に紫の覆縄おかくる、姫路侯〈酒井氏〉の世子河内守も同前と雲、これは近頃公儀の御婿に成りて、世子計り其家の古格お用ゆ、聞けば古き家格にて有しなるべし、〈○中略〉
津軽の支侯甲斐守〈黒石一万石〉と盛岡の支侯丹波守〈南部氏一万千石〉とは、挟箱に赤長革おかくる、通例先挟箱には長革おかくることなるが、この両家は駕後の挟箱にかく、外に類なし、この両氏は近頃の新家にして、津軽の方始めなりしが、その頃先箱のこと、大目付の方にてむつかしく雲しと雲ふ沙汰ありき、因て先箱お後に持たせしにや、南部は又その後に出たれば、津軽の頻に効ひたるならん、〈○中略〉
彦根侯〈伊井氏〉は大家にて一本槍先挟箱一つなり、人の所知、然るに世の太刀箱と謂ふものヽ如きお、いつも従へ持せらると雲、〈○中略〉
佐嘉侯〈松平肥前守〉久留米侯〈有馬玄蕃頭〉とは、挟箱の覆縄唐糸うちなる由、〈○中略〉岩城平侯〈安藤対馬守〉は駕のやねおうるみ色に塗る、挟箱の蓋も同じ、〈○中略〉
萩侯の先箱の長革は黄色
八戸侯〈南部氏二万石〉先箱も長革にして青色
松山侯〈松平隠岐守〉の箱は二重革おかくる