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塵塚談

屋形船の事、享保の比は、江月中に百艘有けるよし、菊岡添凉が編述、江戸砂子に見へたり、増補江戸砂子には見へず、最初の板にあり、宝暦七八年比は、吉野丸、〈一番の大屋形也〉兵庫丸、夷丸、大福丸、川一丸など、大屋形船にして、すべて六七十艘も有けり、予〈○小川顕道〉水稽古に日々見たる所也、然るに当時は弐拾艘計も有べし、皆小屋形のみなり、たゞ家根船、〈本名日よけ船〉猪牙船多く有、家根船は、四五十年已前は五六十艘有けるよし、今は五六百艘、猪牙船は七百艘も有べしといふ、十四五け年以来火敷なれり、船宿六百軒余も有之よし也、それ船舶は、万民の歩運にくるしむお助ける物にして、天下の要具也、家根船、猪牙船は、人力お助るの国用に聊用立ず、遊民のみの乗船にして、無益のもの、日に増月にまし多く成事歎かしゝ、屋形船は遊船の如くなれど、要用の節、屋根お取払ひ、数百石お積入事なれば、無益の物にあらず、