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紫の一本


蛩(きり〴〵す/○) 是は二挺立の舟に、小さき覆ひおしたる船お雲ふ、吉原の通ひ船なう、遺佚が雲ふ、此の舟お蛩(きり〴〵す)と雲ふは、おほひ小さく、乗るにも出るにも、四つばひにして出入す、ぐらり〳〵とふれうごきて、今水に入るか〳〵と思へば、あぶなきばかりにて、面白き事も遊山も、何もかもなくなる故に、吉原がよひお、ふつゝと思ひきり〴〵すといふ心なるべしといへば、陶々斎が雲ふ、吉原通ひおおもひきりは、きこえたが、下のすの字は聞えず、歌に、きり〴〵す夜寒に秋のなるまゝによわるか声の遠ざかり行く、と雲ふ其ごとく、夏の凉しき時は、此舟もはんじやうすれども、秋風もはだ寒くなれば、浪もあらく風まけもする故、舟のかよひも遠ざかり行くと雲ふ心成るべしといへば、鎰屋の仁右衛門が雲く、左様の事にてはなし、きり〴〵となり候声お以て、蛩(きり〴〵す)と申候と雲ふ、