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折たく柴の記

此年〈○正徳三年〉七月二日に、大和川魚梁船(○○○)の御沙汰あり、是は摂津国より大和国に送るもの共おば、川船に積載て、河内国亀け瀬と雲所に至り、此所よりしては水浅ければ、魚梁船といふものにうつし載て、彼国中に分ち送る、其魚梁船の事は、慶長の頃より、大和国平群郡立野村の住人に、安村といふ竜田本宮の社人支配し、其運賃の利によりて、竜田の社お修造し、公にも運上の銀三十枚お参らせけり、〈安村は、代々喜右衛門と雲也、此事によりて竜田の社御修造の例はなきなり、〉元禄十年丁丑に至りて、立野村の者共、魚梁船の事仰付られんには、運上の銀百五十枚お参らすべしと望こふ、此所は御料にて、しかも運上多く参らすべしと申ければ、其請に任せて安村が支配おば停めちる、宝永五年戊子閏正月、大和の御料私領五百三け村の百姓共、南都奉行三好備前守がもとに訴ふる所は、初め立野の者ども、魚梁船支配の事、前例に準ずべしと望み申ながら、賃銀おましくはへ、剰船破れぬれど、其荷物おも償はざるのみにあらず、ほしきまゝに掠め取ぬと申す、同二月大坂の干鰯あきなふ者ども、又訴へしは、前例大和国中の田地肥しの為に干鰯うり渡して、載送る船破れぬれば、其料おば魚梁船支配のものより償ひ来れり、然るに去年丁亥十月、大地震に船破られし時、其料償ふべき事お申すといへども、其事に不及と申す、立野のものども召て、其料償ふべき由お下知しぬれど、奉行の下知にも従はず、同五月備前守、此由お京都に申す、同六月、紀伊守信庸朝臣下向の時、備前守が申状おさゝげて、此事評定所にや召決せらるべき、又京都にや召決すべきと申されしお、勘定奉行所に仰下さる、荻原近江守等、南都奉行所、並御代官所に、事の由お尋ね問ふて後に、かの魚梁船の事かへし付られんには、運上銀三百枚お参らすべき由、もとの支配人安村望請ふによりて、立野の者ども、又三百廿九枚運上銀お参らせん事お申訖ぬ、立野の村と申は、わづかに千石の地にして、戸口の数も多からず、十四年此かた、此船の賃によりて、御年貢お参らせ来りしに、今はた是お安村に返し付られん事不便なり、隻今迄のごとくに、立野のものゝ支配たらん事然るべしと申ければ、同き六年己丑十月、勘定奉行の異見のごとくに御沙汰畢りぬ、〈○中略〉かくて御代も改りしに至て、安村が子、父が此事によりて死せしお恨みて、其志つがんとや思ひけん、来り訴ふることやまず、〈○中略〉詮房朝臣〈○間部〉いかにやはからひぬらむ、有し昔のごとくに、魚梁船の事、安村が子に還し付られて、運上の事免除せられ、竜田の社修造の事、怠慢なかるべきよし、仰下されたりけり、