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再校江戸砂子

阿宅丸の旧地 新大橋のすこし北也
此あたけ丸(○○○○)といふ御船は、元来小田原北条家の軍船にて、樟木おもつて凡長三十八間、胴の間十八九間ありしよし、完永十年、御船手向井将監忠勝に仰付られ、相州三崎より江府へ御取よせにて、同十二〈亥〉年六月、忠勝に命ぜられ、上覧〈○徳川家光〉ありしに、天和年中、ゆへありて此船御たゝみあそばされしと也、其節の俗説に、此船もと伊豆国下田浦にてうちたる故にや、御船出の度毎に、船のひゞき、自然と、いつへゆかん〳〵とうなりたるゆへ、御潰し遊されしよし風聞と也、猶此船江戸入のとき、先祖さる若勘三郎に金麾お下され、音頭おとり、江戸湊へ引入しと申伝也、