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梅松論

五月〈○建武三年〉廿三日戌刻に、雨まじりたる西風少し吹、将軍〈○足利尊氏〉御悦有て仰られけるは、此風は天のあたふる物か、はや纜おとくべしと有ければ、或議に雲、海上の事、其儀お得ず、異見お申がたし、大船共の船頭お召れて、御尋有べしと有に依て、御座船串崎の船頭、千葉大隅守が舟、おぎはしの船頭、大友少弐、長門周防の舟の船頭拾四人、御前に列して各申けるは、此風は順風なれども、月の出夕に吹替てむかふべきか、出されては若途中にて難義あるべきかと有ければ、援に上杉伊豆守の乗舟名おば今度船と号す、長門安武郡椿の浦の船頭孫七、畏申けるは、是は御大慶の順風と存候、その故は、雨は風の吹出て降候、月の出ば雨は止候べし、少はこはく候とも追風なるべきよし、一人申上たりしかば、御本意たるに依て、御感再三に及ぶ、忝御意お懸られ、左衛門尉になさる、将軍仰られけるは、元暦の昔、九郎判官義経、渡辺より大風なりしかども、順風なればこそ渡りつらめとて、雨の止おも御待なくして御座船出さる、あやうかるべきよし、余多の船頭申上おば聞召れずして、一人が申お御許容如何と、内々申輩有けれども、進御道なれば異見に不及、既御船お出されければ、総而船数大小五千余艘とぞ聞えし、去ながら其夜御供に出し舟、三千艘には過ざりけり、月の出夕お待て、室より五十町東なる抄子浦に御舟かゝる、案のごとく雨止しかば、月とともに御座舟走りけり、