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湯土問答


吾大東に、車の造り出されしは、いづれの比にや、又天子御車に召ける事も、いづれの世に始りけるにや、大和物語に、御輦に鷹おとまらせらる事見ゆ、輦とは手かきにする車なり、車は牛にひかするなれば、輦と車とは異なる物也、さて昔は賤き人も車に乗たる事、今昔物語等に見えたり、然らば車の制度に貴賤の品有しにや、檳榔毛など名目も聞ゆ、又車のすたれたるは、いつ比よりの事にや、
右詳にせんは、事長かるべくとも、くはしきこと、承申度こそ存じ候へ、

車作り出されし事、国史等所見なく候、然るに海東諸国記に、天武天皇十二年に、始て車お作ると見え候、外国より記せしことなれども、日本紀に不見して、其後国史等に見へ候へば、此説よく協たるが如し、此廃れしことは、いつとさして見え候ことはなく候へども、応仁の乱、都は野辺のたひばりと読し頃に、車までも残りなく焼失し、其後公卿雲客も諸国へ流浪し給ひ、たま〳〵残り給ふも、即位の礼さへ、御譲位以後、十年余お経て行し世なれば、其公卿車など作り出す料など、思もよらず成りにしより、自然と廃れしぞ、文明十二年に、一条禅閤〈○兼良〉記し給し桃花蘂葉に、私家有之車、破殞の後は、院の御車お申出して使用なりとあれば、彼の応仁以来は、仙洞計に車も残りありしお、摂家などばかり用られしなるべし、今は諸臣の車お用ひ給ふことなき世とはなりたり、
天子御車のことは、更になきことにて御輿なり、是に三つあり、鳳輦、葱花輿、腰輿なり、是は行幸に鳳輦、神事行幸に葱花、宮中又焼亡等の時に腰輿のよし、有職抄に見えたり、是おかき奉る駕輿丁、七十人の定の由候へ共、当時は五十人計、京都に居申由に候、輦は和名抄に、和名天久流万と見え、職員令義解に、舁行曰輿、挽行曰輦とも見え候、是は宮中にて、牛お放て手びきにする故の名也、又別に輦と雲車お作りて後、更衣等宮中お行かよひ給ふ時の料なるも、昔は有しと雲、然るに鳳輦に手車の字お書こと、不審なること也、初め輿なりしお、誤て輦の字お用候やと雲、本朝にて、似たる字にて通用する例、多きことに候、
車に貴賤の品あること 飾車、〈加茂祭乗之〉青糸毛、〈春宮乗給之〉赤糸毛、〈加茂祭女使乗之〉尼眉、〈関白太政大臣乗之〉唐庇、〈上皇女院乗給之〉半蔀車〈大将以上乗之〉檳榔車、〈関白以下至参議常乗之〉網代車、〈家々説不同也〉長物見大八葉、〈大臣乗之〉切物見大八葉、〈上下乗之〉小八葉車〈外記史弁官、医陰之輩乗之、〉之由、物具抄に見えたり、されども諸家の記どもの説、一条ならず、殊に網代車の事、説々不同と記せし如きことにて、一条家装束抄には、半蔀車と同物なる由見え候へば、貴人の物に候、されども源氏物語に、御忍びあるきなれば、御車もいたふやつし給ふとある所の諸注に、網代車なりとあれば賤き車也、其外にも賤しきには、網代車と多く書しことあれば、一条家装束抄の説不審なり、然るに西宮抄に、昔賤きもの乗候網代車には、紋お多く画きて、文(もん)車と雲とあれば、網代車に制作のやうによりて、貴賤の品あるにや、又猶賤きに尹板車と雲ありて、下臘の乗には、簾の縁お色革お以てすると雲ことも、総役車に僧の乗りしと雲ことも、古く見えたれば、昔四天王と雲ひし武士の乗しものなどは、文車、板車などの類なるべし、