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春波楼筆記
江戸車町は、芝高輪の手前、牛屋あり、是はいにしへ御入国の時、東照神君、大津牛お呼びよせらる、百三十六匹といふ、御城の石垣の石お牽かせたり、二代将軍秀忠君の時に至りて、牛方共大津へ帰らん事お願ふ故、五十六匹お留めて、残おおん返しある、飯田町辺に牛原と雲ふ所あり、車置場は江戸橋の四日市にあり、牛車追々渡世薄くなり、牛三十六匹になる、其の後牛原の牛、今の車町に来たる、海ぎはの地、車置場になる、漸々減じて今五軒となりぬ、大八車のみ用おなす故なり、千場太郎兵衛と雲ふ巨家あり、牛屋に千場氏あり、太郎兵衛、もと此の家の牛牽なり、故に主人の苗字お己の姓とす、牛屋の名お恥ぢて、近来牛屋の千場衰微す、太郎兵衛、其家お買ひ取り、千場の名お止め、別号とす、熊本侯の金用達にして、帯刀の免許あり、