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源平盛衰記
三十三
光隆卿向木曾許附木曾院参頑事
木曾冠者義仲は、〈○中略〉我官お成たり、さのみ非可有引籠、出仕せんとて、直垂お脱置て、狩衣に立烏帽子著て、初て車に乗、院〈○後白河〉御所へ参る、〈○中略〉牛飼は平家内大臣〈○宗盛〉の童お取て仕ければ、高名の遣手也、主の敵ぞかしと目ざましく心憂思ひける、〈○中略〉牛童、車お門外に遣出て、後て一楉(すわへ)あてたれば、飼立たる強牛の逸物也、何の滞か有べきなれば、如飛走る、木曾車の内に却様にまろぶ、牛お留ん為にや、おれ童々と叫ければ、留よと雲とは心得たりけれ共、いとゞ鞭お当つ、牛はやりあかて躍る、起あがらん〳〵とすれ共、なじかは起らるべき、〈○中略〉郎等共が馳付て、如何に暫し留よと仰の有るに、角は仕るぞと雲ければ、牛童、陳じ申けるは、やれ小でい〳〵と候へば、初て御車に召て、面白と思召て、車お遣々と仰あると心得て仕て侍り、其上此牛は、鼻つよく候と申て、車お留て後、木曾起居たりけれ共、六七町はあがヽせぬ、きならはぬ狩衣の頸にて喉おばつよく詰たり、遍身に汗たり、赤面してぬけ〳〵とあり、