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守国公御伝記

軍物語の内には、平家物語およしとすと、古人も言しとて、其絵お竹沢惟房に命ぜらる、其時代に合ふや否の、慥ならざる事多ければ、古実博覧の人に間せられ、猶明証お得難き事は、京師の有職家、又は好古の広橋儀同伊光公などにも問せ玉ふ、〈○松平定信〉就中詳かなり難き物は、輿車の二つにて、官位の高下にもよりて、種々の差別あれば、先づ此権輿お正し玉はんとて、確撿挍の塾生稲山平蔵行教、国学に長じて博覧なれば、それにも托し玉ひて、古代の檳榔お始、大八葉、小八葉等、種々の製作お諸書より編集せしめ、撰択取捨し、阿州藩渡部広輝〈住吉広行門弟〉に、一々指揮して写さしめ、又当時京師住吉南都に残れる輿車の全図おも模せしめ、材の寸尺、金物の大小まで悉く備り、工匠一見すれば、其儘造出すべき様に、詳細お尽さしめらる、詞書は古書お引、緬密に、自書して十五巻となし、輿車図考と名付玉ふ、広橋卿懇望にて書写あり、叡覧に備らる、朝廷の御用にも相立、縉紳家にては又なき有用の物なりとて、殊に感賞せられし旨、広橋卿より度々告来されしとなり、稲山平蔵に委く垂問し、全備したる時よませ玉ふ歌、小車のせばき物身の我身には人の言葉おたゞかりもすれ○