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北越雪譜
二編一

盾〈字彙〉禹王水お治し時、載たる物四つあり、水には舟、陸には車、泥には盾、山には樏(かんじき)、〈書経註〉しかれば此盾といふもの、唐土の上古よりありしぞかし、彼は泥行の用なれば、雪中に用ふるとは、製作異なるべし、盾の字、橋、蕞、橇、秧馬、諸書に散見す、或は雪車、雪舟の字お用ふるは俗用なり、
そも〳〵此盾といふ物、雪国第一の用具、人力お助事、船と車に同く、且に作る事、最易きは、図お見て知るべし、〈○中略〉前にもしば〳〵いへるごとく、我国〈○越後〉の雪、冬は凍ざるゆえ、冬に盾おつかへば、雪におちいりて摘(く)ことならじ、盾は春の雪、鉄石のごとく凍たる、正二三月の間に用ふべきもの也其時にいたるお、里俗盾道(そりみち)になりしといふ、俳諧の季寄に、雪車お冬とするは誤れり、さればとて雪中の物なれば、春の季には似気なし、古歌にも多くは冬によめり、実にはたがふとも、冬として可なり、
盾は作り易物ゆえ、おほかたは農商家毎に是お貯ふ、されば載るものによりて、大小品々あれども、作りやうは皆同じやうなり、名も又おなじ、隻大なるお里俗に修羅といふ、大石大木おのするなり、
山々の喬木も、春二月のころは、雪に埋りたるが、稍の雪は稍消て、遠目にも見ゆる也、此時薪お伐に易ければ、農人等おの〳〵輻お拖(ひき)て山に入る、或はそりおば麓に置もあり、常には見上る高枝も、埋りたる雪お天然の足場として、心の儘に伐とり、大かたは六把お一人まへとするなり、さて下に三把お並べ、中には二把、上には一把、これお縄にて強く縛し、麓に臨で差跌(すべらかす)に、凍たる雪の上なれば、幾百丈の高も、一瞬の間にふもとにいたるお、盾にのせて引かへる、或はまた山に九曲あるには、件のごとくに縛したる薪の盾に乗り、片足おあそばせて、是にて楫おとり、船お走(はしら)すがごとくして、難所お除て数百丈の麓にくだる、一つも過ことなし、其術学ずして自然に得る処、奇々妙々なり、
盾お引て薪お伐こと、いひあはせて行ときは、二三人の食お草にて編たる袋にいれて、盾にくゝしおくことあり、山烏よくこれおしりてむらがりきたり、袋おやぶりて食お喰尽す、樵夫はこれおしらず、今日の生業おこれにてたれり、いざや焼飯にせんとて打より見れば、一粒ものこさず、烏どもは樹上にありて諦、人はむなしく鳥お睨て詈り、空肚おかゝへて盾歌もいでず、盾おひきてかへりし事もありしと、その人のかたりき、
そりおひくには、かならずうたうたふ、是お盾歌とて、すなはち樵歌なり、唱歌の節も古雅なるものなり、親あるひは夫、山に入り、盾お引てかへるに、遠く盾歌おきゝて、親夫のかへるおしり、盾に遇処までむかへにいで、親夫おば盾に積たる薪に跨せて、妻や娘がこれおひきつゝ、これらも又盾歌おうたうてかへるなど、質朴の古風、今目前に存せり、是繁花おしらざる、幽僻の地なるゆえなり、
春もやゝ景色とゝのふといひし梅も柳も、雪にうづもれて、花も綠もあるかなきかにくれゆく、されど二月の空はさすがにあおみわたりて、朗々なる窻のもとに、書読おりしも、遥に盾歌の聞るは、いかにも春めきてうれし、是は我のみにあらず、雪国の人の人情ぞかし、