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輿車図考

往古車輿所見事上古車輿の事、いつより有りそめたりといふ事詳ならず、輿は神武紀に皇輿巡幸とあるは、誠に御輿に乗じ給ひしか、又潤飾の文なるもしりがたし、鸞輿乗輿などゝいふこと、所々に見えたるは、みな文章なり、〈○中略〉垂仁紀に、竹野媛、輿より堕ちて死したるよし見えたるはたしかなり、〈○中略〉応神天皇の御輿、承久元年に焼亡せしよし、東鑑に見ゆ、〈○中略〉かた〴〵車輿ありし事は明らかなれど、其の制はしり難し、中古よりは、天子は御輿と腰輿とに乗り給ふことにて、牛車は勿論、輦車といへども、是お供奉したる事はなし、是は孝徳、天智、文武などの御時よりの事かとおもへど、其のはじめまた詳ならず、しかれども古書どもに、おほく御輿といひて車とはいはず、輦といへるも、まれ〳〵にはあれど、子細ある事なり、〈○中略〉さて延喜式〈○内匠式〉に、その製造は見えたり、〈○中略〉このくだりにも、御輿御腰輿には御の字ありて、腰車牛車にはなし、これ供御と人給とおわかちたるもの也、これにても供御は輿にかぎる事おしるべし、然るに職員令主殿条に、輿輦とある、〈○中略〉これによれば、供御の輦あるが如くなれど、しからず、孝徳天皇よりこなたは、おほく隋唐の制度に倣はるゝ事なるが中にも、令は唐令によりて造られたるが、文章も名目も、必しもその制度には准ぜずとも、たゞ其の儘にうつされたる事まゝあり、こゝの輿輦も、唐令の文のまゝにて、実に供御の輦ありしにはあらず、その証には、この文大唐六典に見えたる、六典も唐令によれるなるべきに、その文全く同じきおもてしるべし、〈○中略〉猶令文の輿輦お解せば、輿とは、腰輿の事にて論なし、輦とは、熟字は唐令の文のまゝにて、実は御輿の事なり、皇朝の制、車輪お除きて、輿として用ひらるゝ事にて、鳳輿は唐の鳳輦なり、葱花輿は唐の大小玉輦なり、五色輿、常平輿といふもあれど、鳳形葱花お拠として、猶御輿は、輦お摸られたると定むべし、そも〳〵唐の制度、乗御に四色あり、路車、傍車、輦、輿なり、〈○中略〉この中に路車、傍車は、皇朝には凡用ひられず、輦は御輿にて、輿は腰輿なり、しかればそのもとの名目のまゝに、輦といひしも常なりしと見えて、輦とも鳳輦ともいへる事あり、後々の日記などには、かへつて輿といへる事希なり、〈○中略〉この書ども〈○続日本後紀、抉桑略記、村上天皇御記、西宮記、北山抄、小右記、〉に、鳳輿とも鳳輦とも相まじへていへり、鳳輿は車輪なくして実は輿なるが故、かくかけるにて、当時のことばには、熟字のまゝに、鳳輦といひなれたることばのまゝなり、この詞、後世までもつたはりて、いまもたゞ鳳輦、葱花輦とのみいふなり、三代実録に輦といへる事もあり、それはた輦は名称にて、その物輿なる故、かくもいひけん、この文下に引けり、又日本紀略〈○天長七年十二月〉に、荷前使発遣于行幸の処に鳳輦とあり、この文字、慥なるものにはこゝにはじめていづ、〈○中略〉荷前の発遣は、宮中行幸にて、腰輿お供奉する例なれば、心得ず、文飾に過ぎたるなるべし、