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古今要覧稿
器財
輿
輿お武家にて用ひしは、文治二年十一月十二日、鎌倉右幕下〈○源頼朝〉の若君、〈頼家、時に五歳なり、〉鶴岡八幡宮へ参られし時、乗ちれしおはじめといふべし、〈東鑑〉たゞしそのころ、いまだ輿に付てのさだめなかりしにや、三浦大介義明、衣笠の戦やぶれて落行時、輿にのり、〈源平盛衰記〉北条時政の、六代御前お捕て関東へ下る時も、輿にのせたると、伊予守義経の車に乗たるお、右幕下の花飾なりといかられしお、〈同上〉合せ考ふるに、武士の車にのることはならざりしと聞ゆれども、輿はさもなかりしなるべし、その後、延文三年十二月廿二日、足利宰相中将義詮卿、征夷大将軍に任ぜられて参内ありし時、義詮卿は車お用られ、舎弟の左馬頭基氏、及び管領左兵衛督義縄は輿仁のれり、その他はこと〴〵く騎馬なり、〈宝篋院殿将軍宣下記〉永和元年三月廿七日、鹿苑院将軍、〈○足利義満〉石清水社参の時、御所より東寺まで車、東寺より四方輿お用ひられし〈鹿苑院殿御元服記〉お以て考ふれば、車と輿との軽重、またしられたり、今川貞世は、等持院将軍〈○足利尊氏〉より、宝篋院〈○足利義詮〉鹿苑院の両代まで現存せし人なり、その書おける書に、輿に付ての礼式、くはしくしるしたれども、乗人のさだめはみえず、たゞし今川は、足利家の一族にて、重き人なれば、末々の人の上には及ばざりしにや、そののち三職、及び御相伴衆、吉良、石橋、土岐、六角、細川右馬頭、伊勢守、評定衆、奉行は、輿にのることおゆるさる〈宗五大冊子〉いつの時よりといふこと、さだかならずといへども、応永卅年正月十一日、評定始の時、評定衆張輿お用ひたれば、〈花営三代記〉その比にゆるされしにや、天文十五年十二月十八日、光源院将軍、〈○足利義輝〉坂本へ赴かせ給ふ時は、板輿お用ひたまふ〈光源院殿御元服記〉といへば、四方輿も板輿も、さして差別はなかりしなるべし、