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明良洪範
十一
延宝八年将軍宣下有し時、島津薩摩守綱貴、未だ嫡子にて侍従に在ければ、揚輿お用る事決定し難く、幸ひ加賀仙台両家共在江戸なれば、此両家へ問合せけるに、嫡子の揚輿、両家にても決定し難きにや、しかとしたる返答もなかりしかば、綱貴雲けるは、我今嫡子の身にて、未だ家督はせざれど、家に用ひ来りし揚輿お用ふるに、凱遠慮すべけんや、先例の通り用意すべしとて、慶長年中の通りに布衣素袍等お調へける、且先例は、竜の口の酒井家へ装束長袖など遣はし置き、其所へ立寄り支度しけるお、今度は押て揚輿お用るからは、他家へ労お懸べからず、吾家より乗て登城すべしとて、居屋敷より輿にて乗り出ける、