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続視聴草
初集十
乗物名目
当時乗物と称するは、幾時頃より造り始しにや、考る事お得ず、定て其始作り用ひし人有べし、必定永禄天正の頃より以来の事なるべし、太平記の後の実録お考るに、応仁まで諸家の記に乗物と雲ふものなし、是より後の記は、未だ具さに探索せずと雲へども、全く永禄天正の頃、諸記には、乗物の義あるべき事かと思はる、〈援に永禄天正お引て考るものは、永禄は織田信長公勃興の年、天正は豊臣秀吉天下お掌握の年なり、足利の機運尽て、天下の事大小となく、庶政此二公に帰して、世変浩革ある時なればなり、〉今世乗輿に貴賤の甲乙あり、所謂白木輿網代輿、打揚、網代腰、腰網代、黒呉筵包等なり、然して此制度は、何に拠と雲こと不詳と雲へども、其制厳然として、乗輿の人毎に、其家々の先従格例ありて、聊も過度することお憚らるヽなり、謹で考るに、是皆車の制に本づきたる物力、其車のこと、当時乗用希有の事なるお以、轅輿等に依て斟酌あるものなり、〈○中略〉白木輿より、呉筵包の乗物と雲ふ物に至るまで、乗用する時の甲乙ある計にて、共に腰輿の舁行べきお転用して、其箱(くるまや)の上棟へ柄お透して、肩に載せかつぐことになりたり、恐らくは其如此転ぜしは、人夫の便宜に因れるもの成べし、仮令ば箱の下へ柄お入れば、轅輿の如く四人の夫にて舁行べきお、箱の上へ柄おとおせば、二人の夫にて大刀(かつ)ぐことゆへ、其始は毎事質素お可とせしときのことなるべし、爾しより以来は、治世の繁花にて、人夫の多寡、に拘るの義なき故、輿一口へ、或は八人、或は十人十二人など、乗用する人の尊貴に任せらると雲、其物は造り初たる時の形象お改めざるなり、〈或雲、今の乗物と雲は、古に荷輿と雲しものなり、其名目の転じたるものにて、形象は其古の荷輿なりと雲へり、去れども、旧記に荷輿と雲もの、未だ所見せず、たとへ其名月ありとも、形象のことお註せざれば、今夫お拠り用ひがたし、其記無覚束ゆへに、援に其説お省く也、○中略〉
駕籠 俗称なり、本は箯輿と雲ふものにて、病あるもの、又は罪科ありて、械錠お打て歩行なせがたき物お乗て行べきの料に、竹木お編て輿に造りし物なり、故に類聚和名抄にも、刑罰の具に収めて雲ふ、箯輿、漢書の註に雲、編竹木為輿也、和名阿美以太とあり、今の世阿牟太と雲ふ駕籠あり、即ち其名お存したるにて、阿美太の転音なり、或は是お阿於太とも雲へり、是も阿美太の転音なり、太平記鎌倉の時、高時入道滅亡の時、舎弟四郎左近入道戦場お遁れ落行時に、郎等南部太郎、伊達六郎と雲両人の者、形おやつして夫と成、四郎入道お〓にのせ、血の附たる帷子お上に引覆て、中黒の笠験おつけさせ、源氏の兵の手負て本国へ帰る真似おし、武蔵迄ぞ落たりけるとあり、箯は字書に竹輿とあり、晋書には籃輿と雲へり、〈太平記の〓の字も、竹輿のこ下なるべし、即仮名に阿乎太下有、此字他書に所見なし、〉此物仮令、竹木お編むの義にて阿美太と雲ひしお、竹お曲て造りたるお籠と雲へるなり、駕は乗物の義にて、駕とする籠と雲ふ意なり、今駕籠の二字お用て、其物の一名とせしなり、故に輿の名ある乗物に分たんが為に、其駕の腰お竹にて組む定なり、〈近世は腰お乗物の如くに板にて作り、春慶ため等に塗て、籠と雲印計にわづかに、組竹お其腰にうちつけて用ゆ、〉又此物お舁べき柄は、其本丸木なりしお、今は乗物柄の如くに平角にして、両端お細くするに至れり、是も又僭上の一つなるにや、