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板坂卜斎記

大谷刑部少輔〈○吉隆〉は、合戦負に成て、馬上にて腹お切候と、和泉守記録にあり、刑部煩にて盲目なれば、合戦場へ乗物(○○)にて出、負に成たらば申候へと、五助と申侍に被申渡、合戦負歟と再三被尋候、五助未と申、必定負の時に、御合戦御負と申候処、乗物より半身出掛り、首お被為打候となり、〈○中略〉
安国寺〈○恵瓊〉は、毛利宰相殿〈○秀元〉騎馬と一つに、十六日に、摺針お、笠お被り、黒き羽織にて通候由沙汰あり、其後十日計りも行方不知、京なる雑色ども、御奉公の手立に、京近き在所、方々何となく尋廻り候に、鞍馬寺の月性院に忍んで被居けるが、尋廻て候お聞て、乗物に乗、京お指て被出候由、跡より人々追掛候お聞てえは条本願寺西門跡屋敷へ乗物かき居候やらん、かき捨候歟不慥、乗物掻も手前の者歟、人足か聢と不知、小性壱人附申候、強く被追掛、乗物より御出候へと申、既に乗物より被出候処お、右の方より小性立寄、一刀に首と思ひ切候へば、刀は乗物屋根に当り、首にてはなく、安国寺の右の頬先お少し切候、